カテゴリ:マーラー演奏会(2017年)
ヤルヴィとN響のマーラー6番ほかを聴きました。
武満徹 弦楽のためのレクィエム マーラー 交響曲か第6番 N響横浜スペシャル 2月22日 みなとみらいホール 2日連続の特別公演の初日です。N響は2月28日から3月8日までヨーロッパ公演に行きます。全7公演中、武満は1回、マーラーは3回やります。海外公演直前の仕上げ練習という意味合いの公演ですね。 会場は大入り満員かと思いきや、割合に空席がめだちます。 最初は武満徹の弦楽のためのレクィエム。この曲が聴けるのは貴重な機会です。冒頭の最弱音から、さすがにN響の弦は繊細な美しい響きをだしていて、武満の音世界を堪能しました。 そして曲が終わると休憩なしでマーラーです。大勢の管楽器打楽器奏者が入場してきました。 オケの配置を書いておきます。両翼配置で、ハープは下手側で、第1Vnの後ろに、2台でなく3台。チェレスタはそれと相対するように上手側に1台。ハープとチェレスタの「両翼配置」は比較的珍しいと思います。あとは普通の配列で、ホルンは下手側、トランペットは中央にアシストもいれて7人が並び、トロンボーンとテューバが上手側でした。最後列の打楽器隊は、下手側からハンマー、タムタムや鉄琴や木琴、小太鼓、大太鼓、そしてティンパニ2セットでした。大太鼓がほぼセンターでしたから、上手側は割合に広い空間が空いていました。カウベルは多分4箇所に置いてありました。なおハンマーを打ちつけるのは、木製の箱でした。 演奏が始まりました。ビシッと引き締まった音楽で凄みがあり、時々ぞわぞわっと鳥肌が立ちます。やがて中間の舞台裏カウベルは、上手側のドアが開けられ、その裏で鳴らされました。その鳴らせ方が、ちょっと尖ったというか、刺激的な音だったのが独特でした。しかしこのカウベル、マーラーの意図したであろう、現実世界から離れた、彼方の世界からの響きというニュアンスは、個人的にはまったく感じられませんでした。 そのようにして第一楽章が終わり、続いて第二楽章はスケルツォでした。今は少数派となりつつある楽章順ですが、僕としてはこの順が好きです。 そして第三楽章アンダンテ。N響ですから上手いし、きちっと演奏していて、美しいところ、素敵だなと感じるところがあちこちにあります。しかしそれが長続きせず、すぐに分断されてしまうような感じです。何かが足りない、そんな思いがずっと付きまとって離れません。 第三楽章最後の盛り上がりを導く舞台上のカウベル(練習番号60の直前)は、多分4人がカウベルを持って鳴らしていました。その後の盛り上がったあとは、速めのテンポで演奏されて行きました。 第三楽章から第四楽章へは、アタッカで演奏されました。このようにアンダンテ楽章からフィナーレへと、アタッカでやってくれるのは、すごく良いことです。 第四楽章の序奏途中のカウベルと鐘は、第一楽章と同じく、舞台上手側のドアが開けられ、その裏で鳴らされました。ここでもカウベルが、第一楽章と同じように、やや尖った刺激的の音で叩かれていました。 この第四楽章、迫力には不足はありません。ホルンもトランペットもうまいし、ハンマーもずしりと決まっています。いよいよ最高潮の、複数が指定されているシンバル(練習番号161の直前)、ここはインバルがかつて5人で鳴らしたという伝説を聞いたことがありますが、今回のヤルヴィは、視認できた限りでも4人はいて、盛大に叩かせていました。こういうところはヤルヴィはきちんとやってくれます。ともかくこの終楽章、ガシッとした輪郭の音が強烈に鳴らされ、勇ましいです。この破壊的な音響というか音塊の凄さを楽しみ、満喫した方は多かったのかもしれません。 最後の一撃も、すこぶる強烈でした。残響が消えた後も、ヤルヴィがタクトを下ろしきるまで充分な静寂が保たれました。そのあとブラボーはそれなりにあがりました。 けれどこの6番を聴いて、僕の求めるマーラーと、ヤルヴィの目指すマーラーが相当に異なるということをまざまざと認識しました。2016年10月のマーラー3番と、あとマーラーではないですが同年12月に聴いたシューマンの3番で感じたことが、今回の演奏を聴いてさらに明白に感じられました。 まず素朴に言って、強奏時の音の響きが、きつくて耳に刺激的で、どうにも美しくありません。マーラー3番のとき、サントリーホールなのになぜこんなにうるさい響きになるのだろうと訝しく思いました。次に東京オペラシティで聴いたシューマンも、エッジの尖った激しい音作りで、僕はついていけませんでした。そしてここみなとみらい。ここは響きがとても美しいホールです。それなのに、このやたらに耳を刺激する、きつくて潤いのない音には、驚くばかりです。敢えてこういう音作りをしているのでしょうけれど、こういう音は僕はあまり聴きたくないです。 そしてもうひとつのこと。 この曲、村井翔氏がアドルノの見方に寄りそって分かりやすく書いておられるとおり、第一楽章と第四楽章の舞台裏のカウベルと、アンダンテ楽章全部が、現実世界と離れたところからの音楽です。どんなに憧れても、そこに行く、あるいはそこに安住することがかなわない世界の音楽です。 そして第四楽章では、憧れの世界を志向し、そこにたどり着こうとする懸命な営みが、くるおしく試みられます。激闘の果てに、ひとときそれを勝ちとったかのように思うのも束の間で、それはすぐに失われてしまいます。 ただ、このように言葉にすると、自分でも違和感があります。僕がこの曲を聴くとき、そのような、世界の二重性の狭間で揺さぶられる魂のドラマ、みたいに意識して聴いてなんか決してないです。何も考えず、ただ音楽の流れに浸っているだけです。それでも、突き詰めて考えると、きっと自分は、そういうアドルノ=村井的なところに心打たれているのだと思います。 対してヤルヴィはおそらく、そのような精神的な面には興味がないのでしょう。そのような表現が、ほとんど皆無の6番でしたから。もしかしたらヤルヴィは、マーラーの音楽の中にある、それとはまったく違う面、僕が想像もつかないような面に感ずるものがあり、それを表現しているのかもしれません。 マーラーの音楽には、途方もなく多様なものが内在していると思います。今回のようなアプローチのマーラーを支持する方々もいらっしゃるかと思います。でも僕には、このマーラー、だめです。 上記したような精神的な面に心揺さぶられる僕にとっては、今回のヤルヴィの第四楽章は、ただただ殺伐とした、無機的で破壊的な音が連続していくように聴こえてしまいました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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