世の中に数多ある、ゴルトベルク変奏曲の編曲ものの中で、僕が一番好きなのが、シトコヴェツキー編曲による弦楽三重奏版です。グールドの晩年の録音(1981年)に大きな感銘を受け触発されたシトコヴェツキーさんが、「これまでの音楽生活のなかで、一番作曲者に近いところに居る」と感じながら編曲したそうです。それをシトコヴェツキー、コセ、マイスキーの3人により、1984年に録音され、翌1985年にOrfeoから発売されたディスクは、名盤として知られます。僕も30年余にわたって、折にふれ、このディスクに耳を傾けて来ました。3年前に受けた腰の手術からの回復過程でも聴いたことは、その時の記事に書きました。そこにも書いたように、もしも原曲版、編曲版を含めて、この曲の全てのディスクの中から一つ選べと言われたら、僕はグールドに最大限の敬意を払いつつ、この演奏を選びます。
その後シトコベツキーさんは編曲に手を入れて、2010年に違うメンバーと再録音し、そのCDが2012年にNimbusから発売されました。もっとも僕はつい最近までそのCDのことを知りませんでした。
演奏会でも色々な演奏家がシトコヴェツキーさんの弦楽三重奏版を取り上げていますね。僕が最初に聴いたのは2002年11月のカザルスホールで、マルティン、今井信子、ハーゲンによる演奏で、このことは以前の記事「カザルスホールさようなら、ありがとう(その1)」で少し触れました。あと何回か聴いたうち、特に印象に残っているのは、2006年10月の東京オペラシティでのラクリン、リザノフ、マイスキーによる演奏です。今回とうとう、シトコヴェツキーさんご自身がヴァイオリンを弾く演奏を聴けるという、超貴重な機会が訪れたわけです。
今度のシトコヴェツキーさんの来日を最初に知ったのは、この弦楽三重奏版を6月20日に東京文化会館大ホールで演奏するという情報でした。うれしかったものの、響きの少なめの大きなホールなので、さてどうしようかと思っていたところ、翌日に銀座のヤマハホールというごく小さなホールで、同じ演目の演奏会があることを知りました!これはちょっと、いや相当贅沢なコンサートです。このチケットを即決で買い求め、楽しみにしていたその日が、とうとうやって来ました。昼間は雨風が強く荒れ模様でしたが、夕方ホールに着く頃には穏やかな天気に回復していました。
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ドミトリ・シトコヴェツキー Vn
アレクサンダー・ゼムホフ Va
ルイジ・ビオヴァノ Vc
インヴェンションとシンフォニアからシンフォニア全15曲 BWV 787-801
ゴルトベルク変奏曲 BWV 988
(どちらもシトコヴェツキー編曲による弦楽三重奏版)
6月21日 ヤマハホール
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今回のチェリストは、2010年の再録音盤にも参加されていた方です。(ヴィオリストは違う方です。)プログラムの前半の曲は、その再録音盤にカップリングされていますので、こちらもシトコヴェツキさんの十八番ということになりますね。
銀座ヤマハピル内にあるヤマハホールは、数年前に新たに生まれ変わり、僕は今回初めて訪れました。座席は1階席と2階席あわせて333席の小さなホールてすが、高さは十分にあり、落ち着いた良い雰囲気です。舞台下手から、Vn, Va, Vcの配置です。
前半のシンフォニア15曲は、長調と短調を交互に、自由な順番で並べて演奏されました。後で確認したら、再録音盤に収録されている曲順と全く同じでした。曲順も含めてじっくりと考えられ練られた編曲なのですね。(グールドが、インヴェンションとシンフォニア全曲を自由な曲順に並べ変えて録音しています。シトコヴェツキーさんの順番は、それとも違った独自の順番でした。)素敵な編曲、素敵な演奏で、前半からして満足度十分の素晴らしいバッハでした。ホールの響きも豊かで上質で、後半への期待がさらに高まります。
休憩後、ゴルトベルク変奏曲。もう極上のひとときでした。全部本当に素晴らしいのひとことですが、例えば特に印象的だっのは、第18、19 変奏で、弱音器をつけて(?)かなりの弱音で弾いたところが、美しく、緊張感があり、固唾を飲みました。最後のアリアは、テンポをかなり落とし、一音一音を慈しむように弾かれました。シトコヴェツキーさんが実にいい表情で弾いていて、この曲に寄せる愛情の大きさが溢れるように伝わってきました。最後の音の響きの残りが静かにホールから消えていった後も、会場はしばしの静寂に包まれ、そこにいた皆が、心的余韻に充分に浸れました。
アンコールに、前半のシンフォニアからの1曲、BWV 797 ト短調が演奏されました。
終演後サイン会に参加しました。長年愛聴しているOrfeo盤を出したら、いささか古びたジャケットを見たシトコヴェツキーさんがにっこりとして「1985年」と仰いながら、サインして下さいました。
プログラムの表紙と、三人にしていただいたサインです。
バッハからグールドへ、グールドからシトコヴェツキーへ。そのようにして受け継がれ、豊かさと深みを増しながら、さらに未来に受け継がれていく、音楽の営み。そのひとときを間近で親密に共有できた、幸せな体験でした。シトコヴェツキーさん、いつかまた、あなたのバッハを聴かせてください。