松川事件
下山事件、三鷹事件と並び、第二次世界大戦後の国鉄(現・JR)三大ミステリー事件の1つと言われている松川事件を1961年、新東宝が配給したのが監督:山本薩夫による「松川事件」である。製作の経緯は事件発生から10年後の1959年8月10日最高裁判所が仙台高等裁判所の二審判決を破棄し仙台高裁に差し戻した翌日の8月11日に開催された「松川事件対策協議会」の第7回全国代表者会議で劇映画製作を決定させた事による。物語は三鷹事件から約1ヶ月後の昭和24年8月17日福島県を通過中だった青森発上野行き旅客列車が突如脱線転覆した。現場は東北本線松川駅~金谷川駅間のカーブ地点で先頭の蒸気機関車が脱線転覆、後続の荷物車2両、郵便車1両、客車2両も脱線。機関車の乗務員3人が死亡した。 現場検証の結果、転覆地点付近、線路継目部のボルト・ナットが緩められ継ぎ目板が外されているのが確認され更にレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれ長さ25m、重さ925kgのレール1本も外された挙句殆ど真直ぐなまま13mも移動されていた。周辺を捜索した結果、付近の水田の中からバール1本とスパナ1本が発見された。事件から1カ月近く経った昭和24年9月10日警察はある容疑者を引っ張ってきた。本間刑事(井上昭文)による19歳のチンピラ青年赤間勝美(小沢弘治)への取り調べが始まる。その日から否認を続ける赤間に組合幹部への憎しみ恐怖心を煽り立てる果てしない拷問という激しい赤間取調べが始まった。赤間の瞳は次第に焦点を失っていき警察官、検察官によってあらかじめ用意されたウソの供述書を筋書通りに作らされた。この“赤間自白”を元に、国鉄労組から10名東芝労組から10名が次々と逮捕された。その年の12月5日、福島地方裁判所で第一回公判が開かれ赤間は冒頭から警察での自白を翻し無実を主張した。公判は回を重ねるに連れ、この事件をめぐる警察、検査側の陰謀を明らかにしていった。昭和25年12月6日、死刑5名、無期懲役5名、残る10名に長期刑という判決。裁判は被告たちの考えたほど甘いものではなかった。昭和28年12月22日、仙台高等裁判所における第二審判決の日がきた。3名を除いて全員有罪。判決文というより検事の最終論告そのものだった。岡林弁護人(宇野重吉)大塚弁護人(宇津井健)を始め弁護人団と裁告たちは怒りに震えた・・・この映画は敗戦後、米軍支配下だった日本に日本共産党支持層であった東芝社員らの労働運動を弾圧するためにGHQや警察が仕組んだ謀略とする説が囁かれた疑問と被告人の自白供述書、第一審、第二審の公判記録を元で新藤兼人、山形雄策が脚本を執筆製作資金4,500万円は全てカンパで集められ映画製作陣が事件の潔白を訴えた作品でありました。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【86時間限定!エントリーで最大19倍!!22日10:00~25日23:59まで】隠されたか、日本の恥部 ゾルゲ事件 三鷹事件 松川事件 下山事件/中山雅城