「気をつけてね。最近やたら噛み付くみたいだから」
お客さんのところの猫である。ここ最近は噛むことをしなかった猫なのだが、やたらと噛むらしい。
「子猫ならじゃれて噛むとかするのでしようけどね。ここにきた頃は噛んだりしてたけど、そのときは子猫だったから」
「そうそう、それで大きくなると噛まなくなったのだけどね。15年も生きているおばあちゃんなんだから大人しいはずなのに、逆に子供みたいになっちゃって」
「なんだな、お前と同じやわ」
「何言ってるのよ。私は何時までも清く正しく美しく」
噛む原因、ここの御夫婦には悪いのですが、思い当たる節があります。
戸を開けたとたん、玄関から一匹のネコが飛び出してきました。この家に初めて訪問したときのことでした。
「あっ、駄目ぇ、開けちゃ」
そう叫ばれても出て行ったものは仕方がありません。
「人が来ると警戒して出て行っちゃうの」
一応お詫びしながらも、お猫さまが戻ってきても良いようにと少しだけ戸を開けて家の中へとお邪魔しました。
「動物なんだから警戒心があって普通ですよ。警戒しないで近付く動物なんてエコノミックアニマルだけ」
「エコノミックアニマルなんて、懐かしい言葉ね」
体重で比べると人間の何分の一かの大きさです。その小さい生き物が生き延びていくには、何でも気を許すことは死を意味します。生きていかなければならないのです。鋭い聴覚に嗅覚、そして瞬間に走り抜ける技。体に生きる術が刻まれています。
「赤ちゃんの時から飼っていたら、人間に慣れていて怖がらないのじゃないかな」
「そうでも無いと思うよ。だって生まれてから、そんなに経っていないときに此処に来たから。ずっと一緒に暮らしているけど、知らない人が来たら逃げ回るもの。うちの父親にだって、昼間は家に居ないからか、それとも私とダンナとみたいに、そばに居るのが嫌だからか、ごはん食べるときに魚目当てに寄って行く以外は距離をおいてるもの」
「おいおい、嫌ってどういうことなんだ。亭主元気で……」
「留守がいい。自覚してるだけ救いようがあるかな」
乗りの良さに軽く笑いながら会話を聞いていました。ふと足元が気になります。「ガサガサ」と音がしています。見てみると持ってきた紙袋の中に毛むくじゃらの生き物。
「わぁ、入っちゃったよ」
お猫さまが紙袋の中に侵入していました。いつの間にか戻ってきています。まあ、さすが猫です、上等のまぐろが入っているのを見逃しません。知合いのまぐろ屋さんにもらった塊です。車の中に置いておくと温度が高くてダメになるからと思って、降ろして家の中に持ってきていたのです。油断したのが悪いのですが、うん千円のまぐろがパアになりました。
このお猫さま、黒の毛並みが美しい。エサが良いのか毛がテカテカと光っています。ちょっと短足かな、メスのようです。
「ほんと御免なさいね、なんでも新しい物に興味を示すんだから」
「わしは違うぞ」
「どこが。古女房より新しいのが良いんでしょ?」
「絶対違う」
「ウソ、そんなことないよ。新車ばかり乗って、今まで車検を受けたこと無いじゃない」
「人間と車は違う」
まあ、車を売ることを仕事にしていますから、どんどん買い換えてもらう方が嬉しいのです。
そうです大切なお客さまです。きちんとフォローもしなければなりません。
「良いじゃないですか、新車に乗り換えることで新しい女性を我慢していると思えば」
車を買ってもらえるダンナの味方です。奥方には仕方がないと思わせるように理由を考えてあげなければいけません。
「自慢じゃないけど、若い頃はこのクソオヤジ、もてもてだったんですよ。でもね、今じゃ頭も薄くなってデブになって誰も相手にしませんよ。残念ね」
「クソは余計じゃ」
「でね、人間にもてないから、猫にもてちゃって。ちゃんとメスを拾ってきている」
「たまたま。道端で見つけたんだよ。それで撫でてたら噛まれたんだよ。この野郎と思ったんだけど勝手に家まで付いて来ちゃった」
「あなたの噛んだ」
「小指が痛いってか。昔、そんな歌あったなぁ」
二人のテンポの良い会話を聞きながらも、黒猫の様子が気になります。ちょっとずつ猫に近付きます。袋の中に頭を突っ込んで、お尻だけ外に出ています。そおっと、そおっと手を伸ばします。下に降ろした尻尾。その尻尾の付け根のところへと手を持っていきます。人差し指と親指で、そこをつまむようにマッサージ。エサを食べている最中だからなのか、逃げることなく触らせてくれます。
「あーあ、エサにつられて大人しくしてるわ。現金なこと」
強弱をつけながら、そして背中も撫でてあげます。
外でなにやらパラパラと音がしてきました。
「きやぁ、雨が降ってきた。洗濯物入れなくちゃ。ねえ、二階にふとん干したままにしてるの。入れてきて、はやく」
お猫さまも何事かと、すっと袋から頭を出してきました。腹いっぱいで満足したのか、舌をペロペロしながら毛繕いを始めます。安心しているのか、そのまま触っていても逃げたりしません。
ご夫婦がいなくなったのを幸いに、尻尾の付け根をポンポン、ポンポンと叩きます。猫を飼われている方はご存知かもしれません。叩くと、お猫さまは、お尻を上げ尻尾をピーンと上へと高く伸ばします。全部の猫がそうなのかどうかは解りませんが、尻尾の付け根をポンポンされるのが気持ち良いのか、このような挙動を示します。
お猫さま、にゃぁと鳴きながらゴロンと横になります。ちょっとその時油断しました。両前足で手をつかまれ、ガブリとひと噛み。
「痛いっ」
そして瞬間に手を引っ込め、また尻尾の付け根をポンポンとやります。じっと見ていると、やさしい目をしています。
同じようなことを何回も繰り返しているうちに、二人とも戻ってきました。
「雨も降ってきましたし、きっちり見れませんから、今日はとりあえずカタログと見積だけ置いて帰りますわ」
本当は注文をもらうべく、話をしたかったのですが、ここにあるのはミミズ腫れした右手。それを隠しながら、まあこれが理由だったのですが、とにかく痛かったので今日のところは失礼することになりました。
お猫さまの縁でしょうかね、翌々日にお伺いしてたときには、すんなりと御注文をいただきました。そのときお猫さまは姿が見えた瞬間に走ってきて、足元で頬を力強く右に左にとスリスリしてくれました。
納車の日、お伺いしたらまたまた真っ先に足元にうわさのお嬢さんが、いやおばあさんが。いや失礼ですね、レディがお出ましになりました。
「ほんと他の人間にはなつかないのに、全然警戒心がないなぁ。3回目だから慣れたのかな。それとも、もっと安くしろと、お前からもおねだりか」
限界まで安くしているのに、猫にねだられて値引きなんて、とんでもありません。
条件反射と云うやつですか、お尻をポンポンして欲しいのが噛み付く原因になったのでしょう、多分。
早速噛まれました。ポンポンと叩いてやります。そしてこちらに振り向き、やさしい黒猫の目と目が合いました。そして片目をつぶしてウインクみたいに、いや確実にウインクしてます。
「わたしの噛んだ、御指が痛い?」