允恭天皇の子 カル皇子が死に 弟の穴穂皇子が
20代安康(アンコウ)天皇に 即位しました。
安康天皇は 大日下王の娘を 弟の嫁にと思い
使者を向かわせました。
大日下王は 喜び 天皇への貢物を 使者に持たせましす。
ところが この使者 悪者でして、貢物を我が物にし、
天皇には 大日下王は 娘の嫁入りを拒否したと 告げました。
ついでに 天皇の悪口を 言っていたとも 告げました。
ひどいやつです。
ついに 怒った天皇は 大日下王を 殺してしまいました。
使者の話が 本当かどうか調べなかったんでしょうか。
ついでに大日下王の美しい妃も 自分の妃に してしまいました。
美しい妃の間には 幼い息子がいます。
もちろん、大日下王の息子ですが その子も宮殿に連れて来て
一緒にくらしていました。
ある日 安康天皇は 妃に
「マヨワ王は 父を殺したのが
私だと知ったら、私を怨むだろうか。」
と言いました。
それを 聞いてしまった 7歳のマヨワ王。
昔の7歳は すごいですね。
天皇が寝ている所を襲い、 父大日下王の仇を討ってまいました。
それで 済むわけありません。
追われた マヨワ王は ツブラ大臣の家に逃げ込みました。
ツブラ大臣は 幼い子が 私を頼ったのだから と
天皇の兵と戦う事 に心を決めました。
天皇の弟 大長谷皇子は ツブラ大臣に
「そなたの 娘を 私の妃にしよう。親戚にになる 私に
マヨワ王をわたしてくれ。」
と、もちかけます。
「娘の事は ありがたいお話、どうぞ貰ってください。
しかし、幼い王子が私を頼って来たのです。
ここで差し出すわけには いきません。
私はこの王子を 守って死にます。
どうぞ 私が死んだ その後 娘をもらってください。」
大長谷皇子は マヨワ王子とツブラ大臣を 討ち、
約束どおり 娘の韓姫を 妃にしました。
つづく
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大長谷皇子は後に 雄略天皇に 即位します。
478年に 倭王武として 宋に上表文を送った有名人ですが
残虐 非道の人 と言われています。
大長谷皇子には クロヒコ皇子とシロヒコ皇子言う
二人の兄がいましたが、天皇の仇打ちに やる気のない態度をした
ので 頭にきて 惨殺してしまいました。
怖い人です。