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睦月かいの戯言

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2005/11/13
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カテゴリ:作品
薄暗い店内。
それとなく流れるアシッド・ジャズ。
煙草の煙は、逃げ場を無くして、天井でもがいている。
僕はそんな煙を目で追いながら、男の言葉を待った。

どれぐらいの時間が過ぎただろうか?
気持ち良さそうに汗を掻いている、ロックグラスの氷がからん、と音を立てる。
死んだ時間は、僕の中枢神経を掻き乱し、本来あるべき衝動を曖昧なものにしようとしているのか?

「私は妻に欲情したんだ・・・」
男は淡々と語り始めた。彼の視線の先には恐らく過去の自分を見ていたのかもしれない。
「・・・結婚して何年にもなるが、こんなことは初めてだ・・・」
「奥さんのことを愛しているんですよ」
見当違いなことは判っていた。それでも僕は、余り知らない男に対して、罪悪感のようなものを抱いていたのかもしれない。
残念ながら、僕は男のことを救うことなどできない。
「・・・愛してなんかいないさ」男は吐き棄てるように呟く。「むしろ憎んでいる。それこそ殺したいほどに、だ」
「穏やかじゃないですね。どうしたんですか?」
僕は自分の口から出た言葉を、他人事のように持て余していた。
正気じゃない。誰かが僕の頭の中で囁く。その囁きが、男に向けられたものなのか、僕自身に投げかけられた言葉なのか、まったく見当がつかなかった。
「・・・あれは自分以外の人間を愛すことのできない、哀れな女だ」
そういうあなたは、本当に自分以外の誰かを愛したことがあるの?
僕は男の女々しい横顔を、目の前に刺さっているアイスピックで何度も、何度も、何度も刺してやりたい衝動に駆られる。背中に嫌な汗を感じた。
「・・・お子さんが居ましたよね? その・・・奥さんは子供に対してはどうなんですか?」
「変わらんよ。あれは自分の子ですら愛せないような女さ」男は水っぽくなった、バーボンロックを一息に呑む。ピアノ音がやけに耳障りだった。
僕の知っている――愛した彼女はもう何処にも居ないのか?
少なくとも、僕が知っているはずの彼女は、不器用すぎて、自分を無くしてしまうぐらいに相手を求めていた。
僕にはそれが重荷に感じ、高校を卒業と同時に、彼女から逃げるように東京に向かった。



「・・・どうしても東京に行っちゃうの?」
「ああ」僕は自分の気持ちが――彼女に対する薄れた想いが、カタチとなり、彼女の心に腐食を起こさせることを危惧していた。腐食した想いは僕を何処までもがんじがらめにする。
「・・・私から逃げたいだけなんでしょ?」彼女の目は真剣だった。
「・・・だぶんそういうことなのかもしれない」
「たぶん? だってあなたのことでしょ?」
「正直わからないんだ。僕の存在は、君の中でしか完結していない。僕自身になるために、何をすべきなのか? 距離を置きたい。君との――君との思い出が詰まったこの街とも、ね」
「・・・それが逃げることじゃないの」
「さあね、僕にはわからない。何度も言うようだけど、本当にわからないんだ」
僕は最後の言葉を保留にして、夜行電車に飛び乗る。
遠ざかる景色が、僕の心を開放し、同時に、蝕んでいった。
彼女の意識だけが亡霊のように、僕の周りを彷徨っている。


「・・・君はあれと付き合っていたことがあるんだろ?」
「もう15年ほど前です。学生の頃の話ですから、随分前の話です」
「そうか。君はもうあれのことを愛していないのか?」
「何を言っているんですか。愛するも何も、夫も子供も居るんですよ? 今更、どうしろと言うのですか」
嘘だった。再会した彼女と、3ヶ月間もの間、子供のように互いの身体を求め合った。
凍結した時間は、二人の欲望を――感情の終着点を曖昧にしたまま、溶け出そうとしていた。
そんな矢先に、男と会った。彼女は僕の知らない顔で、夫と子供を紹介してくれた。



「ごめんなさい・・・言い出せなくて・・・」
「もう会うのはよそう」
「どうして? あなたのことを愛しているのよ」
「君には夫と子供が居る。義務から目を逸らさないでくれ」
「・・・また、逃げるのね。あの時のように、あなたは卑怯よ」
僕は電話を切り、携帯の電源をオフにした。
彼女の言葉が、耳の中で残響となり、僕を執拗に責める。
彼女が言うように、僕は卑怯なのかもしれない。



「・・・あれは君のことだけを愛していたんだ。15年もの間、君への愛情を凍結させたまま、私とままごとのような生活をしてきたんだ・・・私はもう疲れた。あれを引き取ってくれないか?」男は疲れた顔を、僕に向け、力なく微笑んだ。男の頬には、涙の後が醜く刻まれている。
「僕にどうしろと言うのですか? 彼女とは15年前に終わっています。今更そんなこと言われても困ります」
「終わってないだろ。最近まで、あれと会っていたじゃないか。君はまた逃げるのか?」
男は僕の手を掴んだ。死体のようにひんやりしたその感触は、僕の理性を翻弄するかのように、単独で機能している。
「君はそうやって、また彼女から――現実から逃げるのか?」

「あなたはそうやって、また私から――現実から逃げ出すの?」

正直わからないんだ。僕の存在は、君の中でしか完結していない。僕自身になるために、何をすべきなのか? 距離を置きたい。君との――君との思い出が詰まったこの街とも。

「また、逃げるのか。あの時のように、君は卑怯だ」

「また、逃げるのね。あの時のように、あなたは卑怯よ」
彼女と男の言葉が、耳の中で残響となり、僕を執拗に責める。

「君には夫と子供が居る。義務から目を逸らさないでくれ、と言ったそうじゃないか?
君こそ義務から目を逸らさないでくれ。君にはあれを引き取る義務がある」
「僕にはそんな義務はありません。あるのはけじめの問題だけです」
「けじめの問題? 最後の言葉を保留にしたままで?」
僕は最後の言葉を保留にして、夜行電車に飛び乗る。
遠ざかる景色が、僕の心を開放し、同時に、蝕んでいった。
彼女の意識だけが亡霊のように、僕の周りを彷徨っている。
「違う。僕は彼女の中で永遠に閉ざされたくないだけなんだ。僕の存在は彼女の中でしか完結していない」

そう、自分を保ち続けなければいけない。

「保ち続ける意味は? そんなことに一体どんな意味があると言うのだ?」

意味がなければ僕は存在しない。

「存在する必要性があるとでも言うのか?」

必要性の問題ではなく、個人の存続を証明したい。

「証明したところでどうなる? 他人はそんなことに関心はない。君の言っていることは、所詮マスターベーションと同じだよ。ただの自己満足に過ぎん。もっと現実を見たまえ」

僕は名前を持たぬまま、煙草の煙のように、逃げ場を無くして、天井でもがいている。





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Last updated  2005/11/13 11:12:02 PM
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