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カテゴリ:単P
もうええやろ。過去の話やんか。忘れてまえ。町のどこを見たって、あのときを思い出させるようなものは何も残ってないんや。
そんな声も聞こえてきます。 子どもたちは、6年生でもあのとき1歳。4年生以下は震災後に生まれてきた子どもたちです。 保護者も、2、3割は震災後に引っ越してきた方たちでしょう。 いつまでも過去を引きずっていてもしょうがない。前を見つめ、今を生きる。人間だもん、しょうがない。 前を見つめ、でも、過去を忘れない。 同じことを繰り返さないように。 というわけで、ちょうど一年前の自分の日記を再掲しておきます(リンク貼るでもいいんだけど、ココログの過去ログ、異常に重くて見れないこと多くて)。 -------------------------------------------------- わたしはあの日、東京で仕事をしていました。はっきりとは覚えていませんが「大阪で震度5、負傷者16」なんてテロップが入り、ふーんと思った次の瞬間には倒壊した阪神高速の映像。それも、ウチのすぐ近くです。なんじゃこりゃー、で電話かけても通じず。同宿していた友人がもうパニくってしまって、おかげでわたしはすこし冷静になれました。とりあえず名古屋までは新幹線で行って、原チャリ買って関ヶ原を越えようか……などと手配を始めたとき、家族から無事避難しているとの電話が奇跡的にかかってきました。でまあ、仕事にゃならないけどなんとか仕事を片づけ、二日後に神戸へ。西宮北口から歩いていく道で見た光景は忘れられません。役所の前にはまだ遺体袋が置かれたりしていましたし。家も無茶苦茶。家族は兄の家に避難していたので、片づけられる範囲で家の中を片づけ、バイクで兄の家に行き、妻子を実家に送り届け、長い長い被災者生活の始まりです。 いま、もしあんなことがあったら……。 まずは家族の安全を確認。そのあとすぐ、小学校に向かうでしょうね。本部の方とか親しい人の家を片っ端から巡って安否を確認、地域の方と協力して助け出せる人を助け、一息ついたら避難所となった学校の運営を手伝うことでしょう。逆に、わたしが生き埋めになったら、心配して見に来てくれる人がきっといるはず。10年前にはひとりぼっちで苛々しながら暮らしていましたが、今ならそんなことはありません。わたしはもう地域の一員ですから。PTA650世帯の仲間が、校区内8000世帯の隣人がいますから。 -------------------------------------------------- ここが、わたしが地域を意識するようになった原点です。忘れませんとも。 * * * * * * 今日は、三学期のオープンスクール初日。昨年は一週間のオープンスクールでしたが、今年は二日ずつ三回。 我が娘には「来ちゃダメ!」とか言われていますが、んなこと聞くような親父ではないのです。でも、目立たないようにこっそり、ほんのちょっとだけね。うん、しっかり先生の話聞いてるね。よしよし。 気になるクラスを中心に、全クラスを3時間ほどかけて見てきました。 どこも落ち着いています。三学期だから当然? でも、いくつかのクラスでは、先生のほうを見てるようで、表情が「聞いてませ~ん」だったり、上半身はきっちりしていても足元がもじもじ落ち着きなかったり。先生に作業を命じられても、注意されるまで動かなかったり。で、そういう子が多いクラスは、やっぱり「ちょっと心配」な先生のクラスだったりして。じゃあどうすりゃいいのか? 難しい。難しいぞー。 昼休み、美味しそうな給食は横目に、P室で印刷作業(ふれまち関係の文書なので、Pとは関係ありません)をひとりでやっていると、六年生の委員さんたちが次々やってきました。卒業式の打ち合わせだって。そんな時期だよね。 ウチは卒業生保護者の「謝辞」はありません。卒業生と保護者が掛け合いでメッセージを交わしたり、保護者が歌を歌ったり、その年の委員さんたちと6年担任が相談して、何をするか決めていきます。 あとは、お花をどうするか、寄せ書きをどうするか、なんて打ち合わせをわいわい。そそくさとP室を出て、また教室巡りに戻りました。だって、知らないほうが楽しいじゃん! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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