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テーマ:坂本龍馬と海援隊(339)
カテゴリ:龍馬暗殺の謎
西郷という人を考えていく上でこの頃の関連した事件を考えていたのですが、やっぱりつかみにくい・・・。
ある部分は、仁義にあつい温情のある指揮官であり、あるときには計算された冷徹な指揮官になる・・・。「西郷は2人いた!」なんて新説でも出したいぐらいです(笑)。 第1次長州征伐の時には、幕府軍の参謀として長州に、禁門の変の責任者である三家老(国司信濃・益田右衛門介・福原越後)の切腹、三条実美ら五卿の他藩への移転、山口城の破却を撤兵の条件に恭順を決定させています。家老切腹ということで長州藩士に恨みをかう結果となっても、実際にはこの処置に不満な幕府を説得し、大きな戦なしにこの場を納めた・・・。緻密な計算の元に長州藩を完全に滅亡させなかったと考えるべきでしょうか・・・。 赤報隊については、どうでしょうか。慶応3年相楽総三は西郷の密命を受けて益満休之助とともに江戸の進入し、三田にある薩摩藩邸に浪士たちを集めて、江戸を含めて関東一円に置いて騒乱を起こします。慶応4年1月15日総三は近江国松尾で赤報隊を組織し、新政府が東国の人心を集めるために「租税半減」策を打ち出した旨を伝えるために奔走することになります。 しかし、2月にはその「租税半減」の重大さに気づいた新政府軍は、これを取り消すべく東山道総督府より、「無類の徒が官軍を偽って徘徊し、米や金をたかり、人馬の労賃も支払わないのでこれを見つけ次第取り押さえよ。」と布告します。 結局、総三は下諏訪の東山道総督府の出頭命令にしたがったところを逮捕され斬首されてしまいます。 西郷の命により維新の先駆けとなったこの相楽総三は、天保3年(1839年)郷士の子として生まれており、結局藩士でないがために最後は新政府のために切り捨てられた・・・と考えられます。 これが、すべて西郷の意図による物であれば、「計算された冷徹な指揮官」といった表現がぴったりの人になるのではないでしょうか・・・。 そして、西郷を語る上で避けて通れないのが「征韓論」であり「西南戦争」であると思います。(続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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