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予告を見て、号泣間違いなしと思っていたけれど、号泣よりも胸をズキューンって打ち抜かれるような、そんな映画だった。
で、映画自体は、大波が押し寄せるわけでもなく、山場のない、どちらかといえば単調な映画。内容もだいたいわかっているわけだし。 昨日の上映会。監督の塩屋俊さんと、この映画の「素材」(ご自身がおっしゃっていたので)となった鈴木共子さんが舞台挨拶された。 鈴木共子さんってふんわりとした優しい感じ。普通の人なのだ。わたしのまわりに、こんなにふんわりとした感じを持った人はいないなぁ。年齢は、見かけは50歳くらいに見えるんだけれど、お話からすると、もう少し上なのだろう。ふんわりとした雰囲気なのに凜としたなにかを持っているような・・・同じ雰囲気を感じたことがある・・・横田めぐみさんのお父さんとお母さんだ。なにもなければ、おだやかな、やさしい時間を過ごせただろうに。 鈴木さんが、「映画の中で、加害者にも事情があるなんて描き方をされるのが、許せなかった。わたしにとって加害者は、殺しても殺してもたらないくらいなんだから」とおっしゃった。悔しい思いが、ビーンって伝わってきて、涙がでてきた。 舞台挨拶が終わり映画が始まった。会社の上映会なので、ほとんどが背広に社章をつけたおじさんばかり。仕事もあることだし、隙あれば退席しようってところではないだろうか。わたしより後ろの人はわからないが、前の人は、誰一人退席しなかった。 ここからは、ネタバレになるので、知りたくない人はスルーしてね。 映画の終盤、3年半の刑期を終えた加害者がスーちゃん(キャンディーズかよ=田中好子さん)のところに保護司さんとともにあやまりにくる。加害者(袴田さん)は、涙を流して、土下座して「申し訳ございません。3年半ずっと考えてました。なんで、無免許なのに車に乗ったのか、なんで酒を飲んでいるのに乗ったのか、なんであのスピードで走ったのか」と謝る。スーちゃんは「どうして、3年半なんかで出てきたの? 息子が生きた19年ずっとつらい思いをすればいいのよ」「それであなたの気持ちは晴れた?謝ったことで気が楽になった?」「生命のメッセージ展というのをやっています。そこにきて、あなたは被害者に向き合いなさい」(というような意味のこと)を言った。加害者は涙ながらに「はい、必ず行きます」と約束する。「それでも、わたしは、あなたを一生許すことはない。でも認めることはあるかもしれない」とスーちゃんは言うのだ。 (だいたいこういうような意味ととらえてね) で、生命のメッセージ展で、時計を何度もみて加害者が来るのを待っているスーちゃん。でも、来ないんだなぁ。 記者の人から「あそこまで追いつめたらダメですよ。彼は、両親のところからもいなくなり、行方不明だそうです。そして、今日も(生命のメッセージ展)にあられなかった」 スーちゃんが「あそこまで?って」 記者の人が「実は録音してました」と謝る。「そう、じゃ、あなたの責任において、処分してちょうだい」 「心のない言葉は、ゴミだから」 加害者の涙ながらの謝罪は、心の入っていないものだというのだね。謝罪は、自分の気持ちを楽にするためのものだったとしても、 そのときは、本当に謝っていたのだと、わたしは信じたい。 この映画で自分の子供のことを人に話すとき「零くん」とクンづけで呼ぶのが気にいらなかったが。本人に呼びかけるのはOKだけど、公の場というか、人に話すときは呼び捨てだろうが! などツッコミもいれながら、エンドロール。 監督が舞台挨拶で、エンドロールに出てくる赤い毛糸で囲まれた名前は、生命のメッセージ展の人たち(理不尽に命を奪われた人たち)120人です。しっかりと見てください、と言われていたので、エンドロールになっても誰一人立ち上がらない。そして、終わった後、映画なのに拍手が起きた。 出口のところでは、塩屋俊監督と鈴木共子さんが、立ってらした。ミーハーだからね、塩屋監督と握手してもらっちゃった。でも「昔、かっこいいと思ってたんです」なんて言えなかったが。そして、本物の零くんの「生命のメッセージ」のパネルがあった。パネルには、生い立ちから事故に至るまでのことが書いてあった。パネルの下には、靴が置いてある。男の子だもん、大きな靴。そのときに履いていた靴なんだろうか? 鈴木さんに聞いてみたかったが、見てるだけで涙がでて、聞けなかった。 たくさんの人に見て欲しい。とくにハンドルを握るひとには。うちの子どもたちが免許を取ったら、絶対見せる。 こういうもの見ても、なーんにも思わない伝わらない人っていうのもやっぱりいるんだろうな。人の感性なんていろいろだからね。 ぜひ、もう一度みたい お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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