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カテゴリ:つれづれ
やっぱり日本に奇蹟はなかった・・・ってとこかな。どう贔屓目にみてもオーストラリアの方が二枚も三枚も上手だ。ただ、オーストラリアの監督のふてぶてしい顔みてたら気分が悪くなったけど・・。
さて「功名が辻」も信長の終焉を向かえ、佳境に入ったが、今まで山之内一豊といえば、おせん泣かすなとか、土佐藩主で長宗我部時代の家臣は郷士で一豊の家臣は上士などということしか知らず、秀吉の元で活躍したことはあまり知らなかった。備中高松城の戦備えを見ると、確かに一豊は秀吉軍の最前線に陣取っていた。なるほど秀吉に信頼されていたのかと思った。 ところで信長が本能寺で憤死しなくても歴史はさほど変わらなかったと唱える学者が多いが、はたしてそうだろうか?神代から日本国は戦乱期も朝廷の権力は強く、武力で勝る武士も武家社会では権限があっても官位等は朝廷によってもたらされた。すなわち源氏の最高官位は征夷大将軍で平家は関白太政大臣だ。天皇を中心とした日本国家、現在もそうかわらない。国民の象徴に変わったが。その仕組みを根底から覆そうとした人物が歴史のなかで一人だけいた。それが織田信長。一向宗徒はもとより朝廷をも滅ぼそうとした。当時の神社仏閣、これはもう形を変えた武士といえよう。神仏の影で限りない悪行を行っていた。それを比叡山焼き討ちに象徴される如く、ことごとく破壊してしまった。では、もし信長が天下統一をした後はどうなっていただろうか。もちろん先史にない独裁国家になっていただろう。だが、家康と違い、外国に進出することは間違いないだろう。ただ、何故家康が鎖国制度を設けたかといえば、単に信長の夢をついただだけで扁平な侵略を繰り返した秀吉の失敗を教訓としたに違いない。信長だったらどうしただろうか。鉄の船を作るぐらいアイデアマンの彼のことだから、朝鮮出兵も秀吉とはかなり赴きが違ったものになっていただろう。ヨーロッパとの交易も盛んにやったことだろう。とにかく他の武将とスケールが違う。はたして、光秀の謀反をみぬけなかったのだろうか?おごれる心がどこかにあったのだろう。 まあ秀吉にとっては千載一遇のチャンスだった。もし、信長が天下を取ったら、秀吉は出る幕がなかっただろう。家康すらわからないかもしれない。やはり日本国が生まれて今までで、一番インパクトのある人物は、唯一織田信長しかいないと思うが・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.06.13 01:00:43
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