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テーマ:たわごと(26896)
カテゴリ:つれづれ
かの徳川家康は「人の一生は重荷を背負ってとぼとぼ歩くようなもの」だったか、そのようなことを家訓としていたが、人の一生なんて、誰にもわかりはしないし、明日のことさえわからないのが常だと思っている。だから、最近の似非占い師や霊界なるものからメッセージを聞くペテン師などの言動はちゃんちゃら可笑しいと感じている。丹波哲郎が霊界から怒ってるかも知れないでぇ(笑)
大学を出て初めて就職試験を受けた商社の試験での論文の題名は「私の人生観」その時ふと思ったのは、これから社会に向けて飛躍しようとする若者に、こんな題名の論文を書かす奴は、退職間近の取締役で、そいつが好んで出題したのだと推察した。まあ、反抗精神で嬉々として書いた内容は、「自分の人生観なんて、死ぬ間際に、棺桶に片足を突っ込んだときにしかわからない、今を生きることが大切たわ」なんて具合だった。何と、そんな反抗的なこと(反社会的?)を述べたにもかかわらず、その商社で採用が決まったのだから、人生いいかげんなものだ。(笑) さて、その重荷って何だろうと考えて見ると、色々なしがらみなのか、世間体なのか、地位や名誉欲、そしてあらゆる欲望の塊なのか、家族?結局そんなものどうとでも定義出来るし、こんな慎重派の徳川家康でさえ、てんぷらにあたって、いきなりころっと人生を終えてしまったのだから一寸先はわからない。だったら、そんな重荷は道端にでも捨て置いて、身軽になってスキップでもしながら、長い道程を楽しむのが慣用かと存じるがおのおのがたいかがなものかな。(笑) 私の近くに恵比寿顔でいつも自転車で走っているおじいさんがいる。そして常に鼻歌を歌いながら町を徘徊している。どうも偽善家の匂いがするので、私はすれ違いざま、おじいさんに負けないぐらい大きい声で「歓喜の歌」を歌うのが日課だが・・(笑)そんな欲人の真似をしなければ納まらない自分の性。すでにこの人に負けていると悟った。だってこのおじいさんは、人はどうあれ人生を謳歌しているし、楽しんでいる人だから。 縦社会、そして差別社会。もっとも嫌うところ。でも社会はそれによって成り立っているのが事実。じゃ、それに対してどう生きていけばいいのか。まわりを鑑みず、私は自由人だと叫んで暮らすのか。それともまわりを常に意識して静かに静かに潜行して暮らすのか・・・。結局、どここういっても、社会に交わり、同化していかないと生きていけないし、法のもとに縛られている世界では規則を遵守しないとはじき出されてしまう。 種田山頭火のような後世語り継がれるような詩人も、結局生きている時は、まわりに同化できず、鼻つまみものと蔑まれもした。でもまわりが彼の才能をほおっておかなかった。ほんと、しあわせなのんべえさんだったんだわ。 まあ、人生において自分を大きく見せる必要は何もないが、自分の器を知ることは大事だと感じている。人生で破綻する原因は、自分の器を知らず無理をするから。また、器に合わない生活や言動をするから。器とは人間の器量。器の大きい人にはどんなに逆立ちしてもかなわない。でも、自分も含めて、器に水を満々と満たせないジレンマを感じている人は多いと思う。そこで無理をして破綻を招いてしまう。まさに悪循環。だったら一度器から水を抜き、新しい透き通った真水をゆっくりと注入してみたらいいかもしれない。沈殿している悪いものを浄化する作用があるかもしれない。それが出来るか出来ないかが、人生を重荷に感じるのか、それとも楽しくのんびりと、小さなことにもしあわせを感じる人生だと思うのかの分かれ目なのかも。 とりとめのない話。とてもまとまらない。(笑)何がいいたいのか。それも定義してしまうことになるので避けよう。まあ、しいて言えば、重荷なんて背負ってないで、早くどこかにぶちまけたほうが、人生楽しいだわさってことかな(笑)鳴くまで待っていたのでは、ホトトギスにも愛想つかされるし・・・ね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.01.27 11:21:27
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