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銀河団 自分は文系の頭なので理論的に物事を捕らえるのが苦手だが、科学や物理学が大好きで「ニュートン」などの科学雑誌を興味を持ってみている。 今月号の「ニュートン」の特集は「無」についてだった。 無と言えばいつも思い出すのが京都大徳寺の住職、尾関宗園さん。今も元気で説法しているのだろうか。彼の著書「不動心」は社会人になったばかりのころ、私の座右の書だった。当時、人前に出る機会が多く上がり性の自分を何とか克服したいと願いこの書に出会った。そこで欲を捨てるこそ不動心が生まれ、無の境地に達すると知った。それ以来人前に出ても、うまく喋ろう、うまく演奏しよう、うまく的に当てようとした欲が薄れ、自分だけを見つめることが出来るようになった。 今の自分は仏教に帰依しているとは言いがたいが、真言宗を通じ無の世界を少しだけ垣間見たような気がしていた。ところが「ニュートン」によると物理学の世界では無のニュアンスが少し違っているらしい。 何も無いイコール無。数学的に言えば0である。物理学的に無と言えば真空状態がそれに当たる。しかし宇宙を例にしてみると複雑になるらしい。なにもないところに物質はうまれない。ただし真空にもゆらぎの現象があり、電子が発生しそれが膨張し突然ビッグバーンを起こす、つまり物理学的に無は存在しないと・・・。う~んわからへんわ。 まあ気楽に考えてみれば、それもそうかもしれない。生命だって最初に何も無ければ、何も生まれないわけだし、鶏が先か卵が先かの世界。これはもう哲学や禅の世界観を持たなければ定義は難しいだろう。 命が尽きれば無の世界に行くのが、自分の中の仏教感だが、チベット仏教に象徴される輪廻転生と言う摩訶不思議な思想もあなどれない。まさにデジャヴだ。 ただ、人間の浅はかな知恵で何でも定義をすればそれが思想になり伝承になり、いつのまにか理念や概念そして形式化されていく。こっけいな風習や厳格な式典にしても、もし神がいたら人間のそれらの行為は馬鹿馬鹿しく、またほほえましいことかもしれない。 さて無を考えても今の自分には定義も出来なければ、理解もしがたいし何も得られない。むしろ相対的に有を掘り下げる事により、無の役割が判明するのかもしれない。そういった点で今回の「ニュートン」の特集は科学というよりも、無の定義がいかにあやふやな思想だと警鐘しているのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.01.09 06:54:48
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