おいでやす。郡山ハルジ ウェブサイト。

トロントまであと30分少々というところで、観光バスの運転手が突然ハイウェイの出口に向かい始めた。

日本からの観光客を州立自然公園に２日間案内し、明朝日本に帰国するため空港そばのホテルにまもなくチェックイン、というタイミングでのことである。

一体どうしたのか運転手に訊いたら、ここから先は道路が混むので、20キロくらい東にある別のハイウェイを使うのだと言う。

そんなに遠回りするくらいなら、多少混雑しても同じハイウェイをそのまま南下したほうが早いと思うが、まあこの道30数年のベテラン運転手がそう言うのだから、仕方がない。

それにしても、こんな住宅地の中を通ってもお客さんに何も観光ガイドするネタがない。というか、このまま行くとバスはオレが住む町のど真ん中を通るではないか。

オレはこれからお客さんをホテルで下ろしたら数時間後に自宅に帰ってくるわけだが、その数時間前にお客さんを連れた状態で観光バスに乗って自宅周辺を通るというのも妙な感覚だ(笑)。

仕方ないので、オレはこの周辺が自宅の近所であると断って、ご近所のガイドを始めることにした。

皆さん、この一画がワタシが連日のランニングのトレーニングのためにいつも走っているコースです。大きな通りの間隔が約2.5キロあるので、１周するとちょうど10キロになります。

右手に見えてきた森ですが、私がトレイル･ランニングや登山のトレーニングに使っている森です。数種類のトレイルが通っていて、「99ステップ」と呼ばれる崖に作られた階段があり、全部で99段あるらしいですが、実際に数えてみたら100数段あるらしいです。

はい、ここからがワタシが住む○○○○町の正式境界線です。先ほど人口数万人の町と申しましたが、境界の看板を見ると人口8万5000人となっているようですね。町から市に昇格するのも時間の問題という感じでしょうか。

この信号機を左に曲がると、数百メートル先にワタシのトライアスロンチームのコーチが住んでいます。

次の信号機を左に折れ、最初の交差点を右に曲がると、ワタシの自宅です。自宅とは言っても、ワタシが住んでいるのはロシア人一家が住む住宅の地下にあるいわゆるベースメント･アパートメントです。

ところでこのロシア人の大家はもう50歳前後で20代の息子は２人とも結婚しているのですが、昨年子供が産まれました。しばらく奥さんを見掛けないなあ、ロシアの実家にでも帰ったのかなと思っていたら、ある日玄関のそばで赤ちゃんを抱いている夫婦を見掛けました。「ああ、孫が産まれたのですか、おめでとう」と言ったらムッとして「違う。自分たちの娘だ」と言われました。

以来、自宅の上階からは娘の泣き声と大家の子守唄が頻繁に聞こえてくるようになったのですが、これがすごい暗い歌で、聴いていてとても陰鬱な気持ちになります。「♪ラ～ラ～ラ～ラ、ラララ～↑、ラ～ラ～ラ～ラ、ラララ～↓」、ロシア語が分からないのでメロディだけですが、もう何千回も聴かされたので覚えてしまいました。ホントにノイローゼになりそうな暗い歌です。

はい、今通り過ぎたのが○○○ストリートという南北に走る道路で、これを南に40キロくらい走るとトロントに、北に40キロくらい走るとさきほど通過した×××の町に到達します。

交差点の左前方に見えてきた３階建ての建物、△△デンタルという看板が見えますが、これがワタシが差し歯を入れてもらった歯科医です。2500ドルも出して入れてもらったこの差し歯ですが、皆さんをお迎えする数日前にグラグラし出して、舌で触っていたら突然抜け落ちました。おかげで前歯が２本抜けた状態になり、こんな間抜けな面相になってしまいました。英語のLやFやTHの発音が出来なくなって非常に困っております。2500ドルでたった２年しか保ちませんでしたが、高い買い物になってしまいました。

右手に見えて来たのが△△△センターという、先ほどお話しましたこの町にあるGM系の自動車部品メーカーの寄付で建てられたスポーツセンターです。ワタシが水泳のトレーニングをしているのもこのセンターです。中には複数のスケートリンクやバスケットコートなどがあります。

左手に見えてきた住宅地ですが、ホ×ダですとかその系列会社の駐在の方が結構住んでらっしゃいます。この辺の建売住宅ですが、セミ･デタッチトといって隣の家と片側だけ壁がくっついている家で30万ドル、今の為替レートだと日本円で2500万円くらいでしょうか。完全に独立したもう少し立派な家で3000万円くらいですかね。

…あ、ようやく目標のハイウェイ○○○が前方に見えて参りました。ここから30分ほど南下するとトロントですから、皆さんのホテルもそう遠くありませんね。
…ということで、ワタシの住む○○○○町のガイドを終了いたします。ご静聴ありがとうございました。


お客さまから今回のガイドでいちばんの大きな拍手を受けた(笑)。

観光バスの運転手は南下を続けながら、南の地平線にCNタワーが見えて来たとか、ダウンタウンはもうすぐだとか、やたらダウンタウン方面の話をし出した。ちょっと不安になったオレは、オマエ、もちろんこの先、有料道路に入って一路空港方面を目指すんだよな、と訊くと、「…エ、ダウンタウンの××ホテルじゃないのか」などと抜かす。バカヤロー、空港の××ホテルじゃい、よく旅程表を見やがれ。

運転手は、有料道路に入ってしまうと後で請求書が会社に送られてきて、自分が行く先を間違ったことがバレるので、有料道路の入り口を素通りし、朝夕の大混雑で知られる東西を走るハイウェイに入った。案の定、前方は延々とノロノロ運転が続いている。あと20分で到着の予定が、あと１時間になってしまった(笑)。

日本から10数日間客に同行してきて、あと20分やそこらでホテルにチェックインしてゆっくり休めるかと思っていたツアー会社の添乗員の表情は一気に疲労の色を深め、すっかり黙りこくっている(笑)。

オレはこの由々しき事態に気づかず仏のような表情をしているお客さまのため、ああ右手に離陸したばかりの飛行機が夕日をバックに飛んでいますねキレイですねとか、あれは離陸したばかりでしょうからあの軌跡を辿るともうすぐ空港ですねとか、ああ管制塔が見えて来ましたねとか、トロント空港があるのは実はトロント市ではなく、その隣にあるミサソガ市なのですが、ここの市長は今年で90歳の誕生日を迎え、エジプトのムバラクのような独裁政権ではなく、２世代以上の長きに渡って市民に支持されて30年以上も市政に就いているんですよ、黎明期の女子プロアイスホッケーの選手で、今でも背筋がシャンとしていて、90歳の誕生日のときにはアイスホッケーのデモンストレーションをやって見せていましたよとか、とにかく思いつくことをダラダラと話して、不要な迂回をした上に大渋滞のハイウェイに突っ込んだ運転手のヘマをお客さまに悟らせないように努めた。

やがてバスは空港ホテルに当初予定より１時間遅れたものの、旅程表に記載された時刻ピッタリに到着したため、お客さまは運転手のヘマで１時間も無駄にバスに揺られたことにも、何の意味もなくオレの近所のガイドを聞かされたことにも気づくことなく(笑)、笑顔でバスを降りて無事ホテルにチェックインしたのであった。