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カテゴリ:たわごと・仕事・愚痴
妻にしょっちゅう注意されていることに、声がデカイことがある。 自宅で話すようなことを家の外ですると、妻が声のボリュームを下げろという。他人に聞こえるのが恥ずかしいらしい。 10年ちょっと前、首都圏暮らしを始めたばかりの頃、みんな小さな声で話すことにちょっと驚いたことを思い出す。まるで蚊の鳴くような小声で話すのだ。たまに関西の大学時代の友人と会ったりすると、その豪快な声を聞いて安心したものだ。 上司が何かの用事でオレの仙台の実家に電話した際、当事3歳だった姪をも含む家族みんなの声が大きかったとを笑って話していた。上司が言うには、住宅事情が厳しい首都圏では声や生活音が隣人に筒抜けになってしまうので、自然と小声に成長するという。だから、首都圏では声が大きいというのは隣近所に配慮する必要がないくらい大きな家に育った証拠だという。あるいは、住宅事情が厳しくない田舎の出身であるか、田舎でなくとも「お互いさま」の思想が強くあんまり他人に聞かれることを恥としない大阪人なんかにも大声は多いようだ。 オレの場合は住宅事情に恵まれた地方都市の出身である上に、大学は関西、卒業後はアメリカというように、小声であることを要求されずに年を重ねた上に、さらに過去10年は大自然に囲まれた(笑)カナダで生活することによって大声に拍車が掛かったようである。 妻は生まれも育ちも東京23区内なので、オレの大声にはかなり辟易しているらしい。 しかし、その大声の背景にはもう1つ大きな要因がある。 日本の都会では、背景のノイズが大き過ぎて、他人の声が聞き取れないのだ。 外に一歩出ると、ノイズに満ち溢れている。自動車やオートバイが通り過ぎる音、不特定多数の人の話し声、建設現場や工事現場から漏れ出る機械の騒音、街に出ればスピーカーから放たれる不必要に増幅された広告宣伝の音楽やアナウンス、電車のブレーキ音や警笛や通過音...コンスタントにノイズで満ちている。オレは屋外で携帯電話が掛かって来た時、いつも相手が何を言っているか聞こえないので、いつも静かな場所から折り返し掛け直しているのだが、ああいう騒音の中で普通にケータイで会話をしている日本人の能力には驚嘆を禁じえない。 それは屋内でも同様だ。レストランや何かの会場で他人と会話をしなければならない。周りでは人々が通り過ぎたり会話をしている。そのような他人の話し声やノイズの中で、自分の話し相手の声を聞き分けるのはいつも骨が折れる。何度も「すいません、今何とおっしゃいましたか?」と聞き返すのも気が引けるので、たびたび想像で補って、当てずっぽで返事をしている。まるで外国語での会話みたいだ(笑)。 しかし、妻をはじめとする周りの日本人は、このようなノイズの渦の中でも平気で相手の声だけを聞き分けて、普通に会話が成立している。これは、バックグラウンド・ノイズが恒常化した環境で生まれ育った人間が修得した、恐るべき能力だと思う。 田舎で生まれ育ち、北米で声の大きな人たちと一緒に生活してきたオレは、自分自身が聞き取れないので、自分の声がこんなノイズに満ちた環境で聞き取れるのかと思うと、ただでさえ大きな声がさらに大きくなってしまうらしい(笑)。日本の首都圏で育った人たちには、オレがよほど粗暴な田舎モノか、難聴だと思われているかも知れない。 唯一オレの大声が喜ばれるのは、補聴器を使用している高齢者と会話をする際である(笑)。「キミの声はよく通るんで、訊き直さなくて済むからいいネ!」などと笑顔で言われると、まるで理解者を見つけたかのように、つい嬉しくなってしまう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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