Everything, Everywhere, All at Once
「不思議の国のアリス」は10代の少女の精神分裂病の妄想をそのまま物語にしたものでAWS (Alice in Wonderland Syndrome、不思議の国のアリス症候群)という用語もあるらしい。Everything Everywhere All at Once は、いわば不思議の国のアリスの中年女性版といった感じ。主人公Evelynのマルチバース体験の映画だという設定だが、現実逃避したくなったEvelynの妄想の追体験として観ることも出来ると思う。Everything, Everywhere, All at Once というのは、経験者なら分かると思うが、LSDトリップでトンでいる時の状態である。過去も未来もここもあそこも宇宙の果ても一気に経験してしまうあの状態である。ドラッグも経験したこともなさそうな東洋系のアメリカ人女性がそれを経験したら…というコメディドラマなのだろうという先入観で見に行った。そのうち、ゲイの長女との葛藤やMatrixのパロディみたいなシーンが出てきて、あーこれはSF仕立てで描いたアジア系アメリカ人家族のコメディドラマかと思って観ていたが、やがて長女のJoyが並行世界では母親に追い詰められた末、あらゆる世界の全ての出来事をいっぺんに経験して「Everything Bagel」を作り出したマルチバースの魔王というか破壊者だった、という急な話の展開から、「ああ、これは母娘の物語の寓話か!」と気付き、案の定話はSFコメディからニューエイジ思想というか実存主義というかニヒリズムというか哲学的な方向に展開していくのであった。(あのグランドキャニオンのような砂漠地帯で2つの石が並ぶシーンのインパクトは強烈)特に、「Part 2 Everywhere」でEvelynが「◯年前のあの時、あっちを選択していたら…」という並行世界でのさまざまな自分ー女優として成功した自分、歌手としてステージに立つ自分、ピザ屋の看板持ちになった自分、ソーセージ指を持つ人類世界で税務署の監査員とレズビアン関係にある自分、鉄板焼シェフになった自分ーのビジョンを垣間見ながら、時折現実世界に還ってきて税務署の監査員による追及だの領収書の山に囲まれるシーンは、「…ああ、並行世界のビジョンは惨めな現実の自分からの現実逃避だったのか!」という疑いを次第に深めさせた。そのことが確信になったのは、ついにEvelynが並行世界のJoyによってEverything Bagel のブラックホールの穴に吸い込まれようという時に、現実世界ではEvelynは夫から離婚届を手渡され、税務署の監査員が呼んだ警察官に取り囲まれコインランドリーの資産の差押状を手渡され、こんなコインランドリーもともと好きで経営してるわけじゃなかったんだといいバットでガラスを割りまくり…というニヒリズムに陥ってついの自暴自棄になった時だった。その時にいい役を演じるのが、いかにも東洋系のうだつの上がらない弱々しい男を絵に描いたような夫のWaymondである。彼は、妻がバットで破壊しまくったガラスをホウキで掃除しながら、儲かりもしないコインランドリーを経営しながらも、人に優しく慈しみ合って生きることが世界の意味だと言うのである。それを聞いて改心したEvelynはマルチバースの敵を次々に愛で撃ちまかし、everything bagelに今にも引き込まれようとするブラックホールから娘を引っ張り出す。それでも最後まで母の手を振り切って去ろうとするJoyをEvelynはとうとう行かせるが、最後に一言だけ、と言って、所詮世の中なんてどうでもいい、「Nothing matters」であったとしても、他愛もないことで笑い合ったりする瞬間に生きてる意味があるんじゃないのか、といった意味のことを娘に投げ掛け、最後の最後で踵を返させるのであった。この、おふざけみたいなSFめかしたドタバタコメディみたいな映画の設定は監督の「照れ隠し」であって、やり直しの利かない年齢に到達し「現実」に圧倒され逃避したくなる中年へのZ世代からのメッセージのようなところもあるのかも知れない。