ロールプレイとダサいオトナ
ワタシは、自分より明らかに年下や“目下”の人間にタメ口をきかれるのは、あまり平気なほうではない。“上下関係”に極めて厳しい男子校の応援団の出身だし、両親にさえ敬語を使っているくらいなので、いくら冗談でも30そこそこの若造に“呼び捨て”にされたりすると、「殴ったろか、コイツ」とか思ってしまう。例外は、姪が2歳の頃から小学校高学年の現在に至るまでずっとワタシをファーストネームで“呼び捨て”にしているのを積極的に許容していることくらいである。一方、ワタシが仕事をしているアメリカは“タメ口”社会である。社長だろうがペーペーだろうが教授と教え子の間柄であろうが、通常はファーストネームで呼び合うし、敬語も謙譲語もないのでいわば「常時誰とでもタメ口」をきいている。タメ口しかないのだからそれに腹を立てることはもちろんない。微妙なのは、「アメリカにおける日本人との付き合い」の場合である。さいわい、アメリカナイズされた日本人が、日本人と日本語で付き合うときにいきなりタメ口をきいたり“呼び捨て”したりするかというと、あまりそういうことはない。微妙な状況が発生するのは、「日本人と英語で会話する」場合である。たとえば、会話の輪の中にアメリカ人が含まれていて、いつもは日本語で会話している“日本人”に対しても英語で話さざるをえないような状況である。そのような状況では、部下や後輩も、上司や先輩に“タメ口”をきかざるを得ない。最初は「Mr.」や「Ms.」などをつけて“呼び捨て”にすることは避けるよう試みたりはするものの、日ごろの付き合いでお互いのファーストネームしか知らないアメリカ人の前で「ミスター・コバヤシ」とか「ミス・サイトウ」とか言っても誰のことか不明なので、結局は“呼び捨て”になってしまう。...で、いつもは「○○部長。」「…でよろしいでしょうか。」などと謙(ヘリクダ)っている日本人の部下でも、英語で話しているうちに、上司のことを「Satoru is a funny guy!」(サトルは面白いヤツだ)とか言ったり、先輩の言ったジョークに対し「Give me a break, man!」(いい加減にしろよ、オマエ)とか、日本語だったら口が裂けても言わないような言い草を口にしてしまうことが、必然的に発生してくる。英語の文脈ではべつに違和感のない発言だが、日本語に“翻訳”するとヒジョーにナマイキで失礼な発言である。こんな場合に、その日本人に対し腹を立てるべきなのかフツウに流すべきなのかが、「微妙なところ」なのである。ただ、注意が必要なのは、こんなときに英語で出るセリフこそが彼らの「ホンネ」であり、いつもは日本語の敬語に覆われて表面に出てこない部分である...ということである。いつも日本語で付き合っているから口にしないだけで、そのような“言語上の制約”さえ外れてしまえば、こんなことを言っているわけだなあ...という部分が、こんな場面に明らかになるからである。オイラの場合、どうやら言語が切り替わる時点で頭の中の「価値観のスイッチ」も切り替わるらしく、日本語で話しているときに“呼び捨て”にされたら殴っていただろう相手でも、英語でファーストネームで呼ばれても違和感はないし、「おい、ハルジ、こっちにこい!」などと言われたら「...コラ、もういちど言ってみろ。」とスゴんでいた相手に英語で”Hey, Haruji, come here!”と言われても腹は立たないのである。こういう「切り替え」を自然にしている前提には、ワタシの頭の中に「人間の付き合いなんて“ロールプレイ”に過ぎないのだ」という達観があるからなんだろうな、と思う。「上司」に対して“敬語”を使う自分は「部下」を演じているんだし、「お客様」のしょうもないジョークに愛想笑いする自分は「納入業者」を演じているんだし、「父親」のいう理不尽なことにハイと返事する自分は「娘」の役を演じているだけだ。逆に「部下」に“指示”を出す自分は「上司」を演じていて、「娘」にエラそうなことを言う自分は「父親」を演じているのだ。要するに、「誰々の父親」とか「○○会社の部長」とか「○○国の国民」とか性別とか年齢とかいった「自分の属性」は、犬が犬であったり猿が猿であるような実体があるわけではなく、相手との関係の中でその“役割”を演じているに過ぎない...ということである。何で読んだか忘れたが、ある日本の中学の校庭には「らしく。」と大書きされた石碑が置かれているそうだ。教師や親をはじめとするオトナどもは、子供に対してことあるごとに「女らしく」とか「子供らしく」とか「中学生らしく」とか「日本人らしく」とか言うわけだが、これは子供の頃から「○○の役に徹しろ」という“プロとなるための演技指導”をしているわけだ。…で、オトナになるということは、それが“芝居で与えられた役”に過ぎないという自覚を失ってしまうくらい、その役に徹し切った人間になることではないか。もともとは「らしく」振舞おうとして必死で努力していたはずなのに、その“役”が板についてくると、いつのまにか「昔からその役だった」ような顔をし始める(笑)。そして、いつしかそれが“現実”だと思い込み、“ロールプレイ”であるという自覚を失った結果、ほかの“役”が演じられなくなってしまう。...そんな状態が「オトナ」としての完成形なのだろう。...で、この“現実”が“芝居”だという意識のないオトナは、途方もなくダサイよな~と思う。そんな「オトナ」に限って、芝居の“舞台”を降りたときに手元に残る「自分」が何もないもんで、必死で“舞台”にしがみつこうとしているというのがミエミエだし、そういうオトナには、新しい“舞台”で新しい“役”を演じるだけの柔軟性や若々しさや度胸がないからである。いくらオトナになっても、自分は芝居の“舞台”で“役”を演じているに過ぎない...という自覚だけは失いたくないものである。(つづく)