一人称の世界
ボクはこの日記を書くときに一人称に「オイラ」とか「ボク」とか「ぼく」とか「ワタシ」とか、たまに「私」とかを使っていると思いますが、それはたんにそのときの気分によるものです。周りの人の楽天日記を見ると、男性の場合たいていは漢字の「僕」か「私」みたいです。いい加減40歳を過ぎたオッサンで自分を日記の中で「○○ちゃん」と読んでいる気味の悪い人もいますが(笑)。女性の場合は十中八九「私」でしょう。日記で自分を「○○ちゃん」と称んでいる人がいたら、だいたいは10代の女性だと思います。一人称が「オイラ」である女性はたぶんぼちぼちさんくらいではないでしょうか。そういえばボクはこの日記を「俺」とか「オレ」で書いたことがないと思います。ずっと昔によんだ筒井康隆の小説の解説に、「筒井康隆の小説の一人称はいつも“私”でも“僕”でもなく、“俺”だ。それは社会に飼い馴らされた外的な自分(私)ではなく、エゴをむき出しにした荒々しい内的な自分(俺)なのだ。」といったことが書いてあったのを思い出します。この解説にはさらに、「男なら普通、心の中では一人称はつねに“俺”であるはずだ。」といったこともたしか書いてありました。それを読んでいた高校生の僕はこの解説の論旨に納得していたように思いますが、それはたぶん当時の一人称が「俺」だったからだと思います。大学生時代も友人と話す時の一人称は「俺」だったと思う。でも、先輩と話すときは「自分は…」とか「僕は…」になっていたかも。ボクは今では外ではもちろん、心中でも一人称が「俺」や「オレ」になってることはありません。主語が「オレ」になることがあるとすれば、それは高校や大学時代の友人と再会して一時的に「当時に還っている」ときに違いない。今のぼくは社会に飼い馴らされてしまったのでしょうか。...まあ、少年ジャンプや北方謙三的な「俺」の世界のダサさにはもう堪えられなくなったことだけはたしかです(笑)。いつごろから「オレ」を使わなくなったか考えて見ると、答えは意外とカンタンで、大学4年次にイギリスに短期留学したのが最初のキッカケで、その2年後に渡米してからはすっかり「オレ」が抜けてしまったと思われます。理由もカンタンで、イギリス語では一人称は老若男女を問わず「I」しかありえないから(仏語も独語も同様。伊語や西語は一人称に当たるものはないけど同様)。「I」に当たる「ニュートラルな自分」にいちばん近いのが「ぼく」だったのでしょうが、それ以来、外でも心中でも一人称は「ぼく」一本になったようです。この「一人称が1つしかない世界」というのは、日本人男性にとってはなかなか慣れない世界ではないかと思う。だって、フツウの日本人男性は場面に応じて主語を切り替えることで、紳士(私)になったりヤサ男(僕)になったりマッチョ(俺)になったりグータラ男(オイラ)になったり長老や重鎮(ワシ)になったり関西の体育会(自分)になったり江戸っ子(アチキ)になったりテンノーヘーカ(朕)になったり女装(アタシ)したりしているのに、主語が「I」(Ich, Je, )しか使えないということは自我のチャンネルの切り替えがヒジョーに困難になる、ということだからです。会社に居ようが自宅に居ようが、子供だろうが大人だろうが、いつでもどこでも一貫した自我を要求されているようなものですから、それは窮屈でしょう。ボクもたしかに日記で主語を替えることで、ちょっとした多重人格の世界を生きているに違いない。ちなみにボクは心中で一人称が「オイラ」になることはないですが(笑)、「オイラ」を主語にして書き始める日記は自分でも意外なことを言い出したりするので、妙なカタルシスがあったりします。シモネタを書く時はやっぱり「オイラ」だなあ(笑)。「ボク」で書く日記は社会(外部)と自分(内部)の均衡のとれた妥協点の自我で書いているカンジで、書く内容はどうも殻を抜け切れない。いつか「朕」で日記を書いてみたら、新しい境地が拓けるか。HPを右翼に荒らされるかも知れないけど(笑)。「アタシ」で始めたら、橋本治の桃尻娘か宇野鴻一郎の官能小説みたいになるだろうか。「アタシ、今日目を覚ましたら、立ってたんです、珍しく、アレが。」とか(笑)。