テーマ:国内旅行どこに行く?
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佐倉城址を出て、のんびりと昔からの商家がのこる商店街を歩き
テレビで観た蔵の見学ができる和菓子屋さんに到着! 木村屋 お店に入るとなぜかカメグッズがそこらじゅうにあり 名物の蔵六餅も亀の甲羅模様・・・。 蔵に案内していただくと そこにもカメが~!! 列をなす長寿亀 ふと横を見ると なぜか現代のカメグッズが~~!! ウチと変わらないやんけ~~!! 世界のカメグッズ ウチにあるのと同じのをいくつも発見!(笑) このお店、銀座の有名パン屋木村屋の2号店として明治15年に創業し 佐倉の歩兵連隊に非常食やパンを納入していたそう! 先祖はなんと鎌倉の和田義盛! 元は庄屋をしていたが足尾銅山に手を出して失敗した後 他家の養子となって佐倉で新しい製パン業をおこしたとのこと・・・!(お店のHPより) すんごい波乱万丈だよ~~!! この通りに高札場があったらしく 蔵の中に生々しい本物の高札があってビックリ! 密告を促すリアル高札 「バテレン見つけて報告したら 銀●●枚」と書いてある~~!! 名物「蔵六餅」の名前の由来が書いてある文書があり読んでみると なんと、藩主の堀田家は亀の甲羅模様の入った奇石を家宝として伝えていて 亀の心霊を熟慮断行の藩憲として尊重していたと書かれてあった!! ひえ~~!!だからカメだらけなのか~~!!!(驚) 堀田さんますます気に入ったなっしーーー!!! 歴史あるお店に入れて感動~~!! 老舗のお蕎麦屋さんでお昼をいただき 佐倉順天堂記念館を目指してさらに町中を歩く 途中で出て来た研究所の看板。 今も研究の街 堀田家の精神が今も受け継がれているんだなぁと看板にも感動! 佐倉は徳川家と縁が深く 藩主の堀田家は春日局の夫だった稲葉正成の子孫。 佐倉城は江戸城が襲われた時の将軍の避難先としても想定されていたそうだ。 開明派の堀田家は 当時の最先端の蘭学を積極的に取り入れ 開国前から世界に目が向いていた。 日本が植民地にされずに開国できたのは 当時本当の外交能力を持っていた堀田正睦と優秀な部下たちのおかげだったと思う。 そこでしくじっていたら 今の日本があったかどうかすらわからない。 佐倉は本当にすごい所だったとしみじみ思った。 それを最も肌で感じた場所がココ! 近代医学発祥の門!佐倉順天堂 見学者はほとんどいないのがどうかしてるのではないかと思うほど 素晴らしい場所だった。 女性の解説ボランティアさんが上品ながら熱のこもったお話を聞かせて下さり感激! 話を聞く私もノリにノッてしまい、 写真は取り忘れるわ、夫は置き去りにするわで・・・。 (夫出てきて一言「オレ辛かった~~!」) 堀田正睦が江戸から呼び寄せた佐藤泰然が創設した順天堂。 佐藤家のすごいところは 能力主義と教育に対する意識の高さ。 家族を優先するという意識がまったくなく 2代目も3代目も実の息子ではない優秀な弟子を養子にして跡目を譲っていたり 実の息子をポーンと他の家に養子に出している。 養子に出された息子は息子で天皇の主治医&初代陸軍軍医総監になった松本良順、 外交官として日本を動かす出世ぶりを見せた5男の林董(はやしだだす)は ウチの近所の葉山の別荘で亡くなっている。 今は保険会社の保養所になってしまったこの別荘が取り壊されるとき 私はちょっとした関わりがあったため 林董の別荘が葉山にあることを話すと解説員さんはとても喜んでくれた。 こうなると佐倉と葉山との距離もグッと近くなり ますますノリノリで解説を聞かせていただき 当事の医療器具や薬品、 「療治定」という料金表の一覧には かなり具体的な病名が明記されていて驚いた。 「癌摘出」「包茎開皮術」(汗)、「割腹出胎児術」(帝王切開)、 「造鼻施術」とは梅毒で腐り落ちてしまった鼻を造る「美容整形」! なんというか、当時の人々がどんな病気で困っていたのか ニーズがリアルに伝わってくる一覧だった。。。 日本全国から弟子が集まり 藩の壁も身分の壁も関係ない世界をすでに作っていることに猛烈に感動! 手術の場を弟子に公開しながら常に教育を怠らない現場の様子を写した絵なども残されており 佐藤家がいかに後進の育成に力を入れていたかが伝わってきた。 三代目から佐藤家は 佐倉と東京に分かれて2つの順天堂を運営していく。 戊辰戦争では家族や弟子が敵味方に分かれて 双方の戦線医療を担うという壮絶な状況に 胸が揺さぶられる思いがした・・・! 菊の御紋に「病院」と書かれた真っ赤な旗は 官軍の会津攻めで掲げられたものだった。 「病院」という言葉はこの時初めて使われたそうだ。 敵味方の区別なく 医学という「天道」に順する(したがう)志を一筋に貫いて激動の時代を生き残った佐藤家。 しかもこの順天堂記念館のすぐ横で 今も「佐倉順天堂」の看板を掲げた医院を続けている この素晴らしさにしみじみと感激した。 普通は東京進出したらそっちへ全て行ってしまうだろう。 こんな大変な歴史を乗り越えつつ 地元の医療を決して捨てなかったその心意気にこそ 医療の原点があるように思えてならなかった・・・。 順天堂についてはさらに個人的にいろいろ調べてみたくなった。 佐藤家だけで大河ドラマ全然出来そうだよ!! あまりに感動している私を変に思ったのか(?) 解説員さんに 「もしかして順天堂の関係者の方ですか?」と言われてしまった(汗) 私は全然関係ないが そういえば母を看取ってくれたのは順天堂だったことを思い出した。 当事はドタバタで気にもしなかったが やけにデカい応接間付きの個室に だいぶ長く入れてもらえていたのは何か理由があったのかもしれない。 でも不仲の父に今更聞けない・・・(汗) 母が死ぬ前に佐倉順天堂に来ておくべきだったと反省するも この先もし父を入院させる時が来たなら やっぱり順天堂だな!と確信した(苦笑) その後はあの長嶋茂雄さんの出身校佐倉高校の中にある隠れた名博物館「鹿山文庫」へ 堀田家がいかに教育に力を注いできたかを物語る資料が大切に保管されていた。 手書きで写し取った辞書などは大変貴重なものらしい。 鹿山文庫 スーパースター長嶋茂雄さんのコーナーも! 長嶋コーナー この間、インタビュー番組に出ていた長嶋さんを見て感動したなぁ~!! とにかく明るい!!楽しそう!! 病気をしてなお以前のイメージがまったくブレない 底抜けの明るさが健在であることに涙が出そうになった。 本当にすごい人だ! さすが佐倉が生んだスーパースター!! 鹿山文庫を出て素敵な校舎を見学に行く・・・ ピンク色に輝く佐倉高校記念館は、 1910(明治43)年、旧佐倉藩主堀田正倫(まさとも)公の寄付により、 県立佐倉中学校本館として建築された洋風木造校舎。 明治から105年も残っているなんて!! 基礎部分のレンガの積み方は富岡製糸場の建物と同じだと思った。 そして素敵なことに 校舎の中から吹奏楽が・・・! それがまた聴き惚れるほど上手い!! とても幸せな気分になれたひととき♪ 佐倉高校の皆さんありがとう!! そして最後の訪問地「旧堀田邸」へ 佐倉藩の最後の藩主で廃藩置県後は華族として東京に住んでいた堀田正倫(ほったまさとも)が、 後半生を農業と教育の発展に尽くそうと、 1890年(明治23年)に故郷佐倉に建てて移り住んだお屋敷。 国の重要文化財に指定されている貴重な建物! 正倫は、父が井伊直弼との勢力争いに負けて失脚し わずか9歳で家督を譲られて藩主となり、 その後大政奉還、廃藩置県を経て境遇は二転三転。 明治維新では徳川慶喜の助命と徳川家の存続を京都へ嘆願し 明治新政府から徳川幕府の味方をしたとみなされ、 家来の機転でピンチをくぐり抜けた波乱の人生だったよう。 東京での華族としての生活よりも 地元発展への貢献の道を選んだ最後の藩主もまた先祖から受け継いだ志に生きた。 邸内はテレビドラマのロケにも使われている。 私も好きなドラマ「Jin」のポスター このドラマも良かったけど 堀田家や佐藤家のほうが何百倍もドラマティック!! すてきな書斎 夕陽が傾き始めたお庭を散歩して佐倉の旅は終了!! 葉山に向けてボロ車で爆走~~! 歴史と精神が今に息づく素晴らしい佐倉! 忠誠心にあふれ、勤勉で優秀だったがゆえに 時代の最前線に立たされた佐倉の人々。 幕末には紆余曲折し 戦争には多くの兵士を出し 優秀だったゆえに翻弄された矛盾もあっただろう。 それでも底流を貫いてきた「教育という名の希望」が 佐倉の象徴のように感じられてならなかった。 「見えないバトン」を渡すことの大切さと難しさがつくづく身に染みる旅だった。 事前に観光パンフレットを送って下さった佐倉市観光協会さんにも感謝!! 佐倉は本当にすごいところ!! こんな素晴らしい精神が残る佐倉の人たちがうらやましくなった! 何と言っても藩主の家が代々「亀の心霊を藩憲として尊重」しているのだよ!! 感動の連続でテンションがおかしくなっていた私?! 充実の2日間、最高の旅だった!! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2015年12月04日 22時13分00秒
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