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~二次元と三次元の狭間~

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カテゴリ:幕末
1回途中まで書いたのが消えまして書き直しました・・記憶が薄れてきていますが^^、なるべく覚えているうちに書きます!
講演会会場にて録音している方もいらっしゃたらしい(友人談)のですごいなぁと尊敬したのですが、確かに録音っていい考えかも知れない・・・。


1日目:松陰と龍馬

松陰と龍馬には一体どんな接点があったと考えられるのか?
龍馬は松陰からどんな影響を受けたのか?
といった点をメインに、大河ドラマに絡めつつ一坂先生の考える龍馬像なども交えた内容でありました。
以下、※印の箇所が私の感想等で、他は一坂先生の講演会の部分です。


龍馬が江戸に剣術修行に来てすぐに黒船が来た。剣術修行の為ではあっても何かあれば土佐藩の為に動くという条件となっていたらしい。その後すぐ、龍馬は佐久間象山の一門に学ぶようになる。これは時代に対する嗅覚を持っていたと言える。

司馬遼太郎も、或いは『龍馬伝』もそうだったが、この龍馬が佐久間象山に学んだという点は全く描かれていない。他の龍馬の小説等でも結構スルーされがちな事実であるという。それは何故か?

それは"龍馬像"にとって都合が悪いからである!龍馬って奴は小さい頃は出来が非常に悪くてねしょんべんをしているなど駄目だったが、勝海舟と出会うことで初めて開明的な考えを知って大きく成長してゆく・・みんなが共感する龍馬とは、そういう「普通の人間」でなくてはならず、黒船が来てすぐ佐久間象山に入門するような優秀な人間では共感できないから!

※これはある意味、意外な意見でした。龍馬が「共感」を期待されているとは。私の印象とは違いました。

さて、龍馬が佐久間象山に学びだした頃、一門でピカイチの存在だったのが吉田松陰であった。
松陰と龍馬が勉強会?で同席したかどうかはわからないが、佐久間象山が松陰について話したりしただろう。
松陰はその後黒船に乗り込もうとして失敗し捕まってしまうし、その際、佐久間象山が松陰を激励した手紙が発見されたことにより佐久間象山も罰を受けることとなって一門も閉鎖された。

その次の松陰との関わりは、龍馬が土佐勤皇党に入って武市の遣いで長州は萩の久坂玄瑞の元を訪れた時である。
この時の龍馬の滞在期間は9泊。ここで久坂にたっぷりと洗脳されたのでしょうね!
でもこれは、久坂の教えというより松陰の教えです。
藩とか関係ない、たとえ長州がなくなってもいいんだ!と聞き、衝撃を受けたことでしょう。
土佐には松陰を尊敬している人が多い。当時は今とは郷土意識が全然違い、それぞれ自分の藩の人間を尊敬するのが当たり前。他藩の人間を尊敬するということはあまりないのに、土佐藩の藩士が長州藩の松陰を尊敬している人がこれだけ多いということは、もしかして龍馬が土佐勤皇党で大宣伝していたのかも知れない。
また、武市が獄中で自画像を描いているが、アレも松陰像の絵があるので自分も~と、影響を受けたものである。

さて、長州で影響を受けた龍馬は土佐に帰ってすぐに脱藩してしまいました。
その後1年間、龍馬は行方不明になりますが、乙女に送った手紙によって消息がわかりました。

(講演会の前に配られた資料の中に龍馬の手紙がいくつか載っている。そのうちの1つ、「エヘン、エヘン」とか書かれている手紙を読み上げた後)
本当にへんな手紙ですね、とても武士が書いた手紙とは思えない!というか、こういう手紙しか書けなかったんでしょうね!これは、龍馬の自由で何物にもとらわれない~とかを現しているというより、ちゃんとした手紙を書く能力がなかったんだと思います。龍馬は学校にも通ってないし教育を受けてませんから。

※こういうこと平気で発言する一坂先生が大好きです。

さて、松陰の句には
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
という有名な句があります。後年、晋作と龍馬が一緒にいた時、晋作がこの句を口にしたところ、龍馬は
「かくすればかくなるものと我も知る なほ止むべきか大和魂」
と返したという史料が見つかりました。
私(一坂先生)も驚きましたが、ここに明らかなる松陰の影響を見ることができます。
このシーン、大河ドラマで、伊勢谷友介さんが「かくすれば かくなるものと知りながら~」とやって、龍馬がそれを返して・・・ってやってくれていたら物凄く格好良かっただろうと思うんですけど、そういうシーンはなかったですね・・。

この後は、明日の「晋作と龍馬」に続きます。

<おしまい>


※書いてる途中で(龍馬の句を検索してて)見つけたのですが、ここでの講演会の内容はほぼ以下のリンク先の内容ですので参考にしてください^^(同じ講演をいろんな場所で使いまわしていますが全部聞けるわけじゃないので勿論okです(笑))

一坂太郎のディスカバー維新史「松陰と龍馬」
http://www.hagishi.com/ishinshi/007.html





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Last updated  2010年10月28日 13時21分24秒
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