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~二次元と三次元の狭間~

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カテゴリ:幕末
某新聞で、好きな幕末の人物ランキングというのをやったそうです(1日目・2日目共に取り上げた話題ですが今回にまとめて書きます)。
講演会会場で「一体誰が1位になったと思います?」という一坂先生の問いかけに、会場からは
「龍馬!」
「晋作!」
と、2つの声が。
一坂先生「そうなんです、正解です・・この手の人気投票では龍馬が1位と決まっていましたが、なんと晋作が1位、龍馬が2位、3位土方・・・、松陰先生は残念ながら、10位でした」
「こういう結果になったので私のところに取材が来たので、こんな時代ですのでいろんなしがらみに囚われながら頑張っていた晋作に注目が集まったのではないか、という風に答えましたが・・本当のこと言うと、伊勢谷友介さんのおかげじゃないかって思いますけどね!!(笑)

会場からも笑いが。
一坂先生、掴みはオッケーです^^


2日目:晋作と龍馬

晋作はどういう人物だったのか?
晋作と龍馬にはどんな接点があったのか?
といった点をメインに大河ドラマを絡めつつ、一坂先生の考える晋作像・龍馬像なども交えた内容でありました。

以下、※印の箇所が私の感想等で、他は一坂先生の講演会の部分です。
この講演会は晋作の解説が多く、既に知っている話も多かった為、「松陰と龍馬」ほどには覚えていません。内容が偏っていますのでご了承ください^^
また、全て残存記憶を元に書いていますので、話の内容が前後している可能性多々あり。
(「1日目:「松陰と龍馬」は1つ前の日記参照^^)

  ◆ ◆ ◆

晋作が注目を浴びたと言えば菅首相が自らの内閣を「奇兵隊内閣」と言ったことであろう。
この件でも私(一坂先生)のところに「どう思いますか?」という取材が来たので、「奇兵隊というのは(※忘却)、最後は弾圧されて殺されたりしたんですけど、それを知っててそう言っているんだったら凄い覚悟だと思うが、知らないで言っているとしたら如何なものか」という風に答えておきました。
あと、これだけは言いたい。奇兵隊は幕府を倒す為に組織されたとかいうのは間違いです、外国と戦う為に組織されたんです!!(強調)

また、菅さんは宇部市で生まれて高校の途中まで過ごした。自分が山口県出身という意識があるからこその「奇兵隊」発言だろうが、あれは山口県でも賛否両論巻き起こりました。
実は山口県は歴代総理大臣を8人輩出している。なので山口県から9人目ではあるのだが・・
このたび山口県知事は、この菅さんを山口県出身の総理大臣として認めないことを決定しました!

※なんですかそれは・・山口県出身と認めるとか認めないとか、事実山口県出身なのに知事がそれを認めないとか、そういうのってありなの?!とびっくり。
さすが自民王国は凄いなあと思ったんですけど、詳細を調べてみると、「山口県出身」というのは山口県の選挙区から出ていないと当てはまらないんじゃないか、菅さんは東京の選挙区から選ばれているのだから出身と言われても違和感がある。ということのようです。
でも個人的には、もし同条件で自民党員だったら問題になってないような気もしますね^^



それともうひとつ発言がありました。「高杉晋作は大風呂敷を広げる男だと思う」という発言です。
僕は晋作が大風呂敷を広げるような人間かどうかなんて知りませんけどね、日記を読むと「風邪を引いて何日も休んでしまったので明日には直さないと。」「風邪が治らなくてまた休まないといけない・・みんなはこんなに休んでばかりの自分をどう思っているのだろう」なんて気にしているような人物なんです。国会議員の方々が、ちゃんとそういう日記とかを読んで晋作とはどういう人物かを研究した上で「晋作は大風呂敷を広げるような人物」と言うんだったらいいですけど、そうとは思えないですよね!!

※一坂先生の憤りが伝わってまいりました。
しかしこれ、菅さんはことわざの意味を知らなかったんだよね。菅さん的には「そう簡単にはできないけど、やりたいことを言うのが私の大風呂敷だ、あなたの言う大風呂敷と意味が違っていて残念」ということらしい(笑)。その意味なら許しましょうってところでしょうか?個人的にはやりたいことを"言う"っていうのがちょっと気になりますが。晋作は思ってても言わないようなところもある気もする・・・。


(※この後、晋作の説明。16歳での初めての江戸行き~薩長同盟辺りまで。16歳の江戸行きについてはあまり世間では知られていないとを説明したが、一坂氏の著作にはしばしば登場するエピソードである。)

第2次長州征伐の前、幕府の人間と長州とで会談。最初は長州の人間を呼び出そうとしたが、体調不良を理由に何度も断られたので^^、広島(※だったっけ)で行うこととした。
本当は桂小五郎を出せ!高杉晋作を出せ!と言われもした長州であるが、桂小五郎は既に改名して木戸になっているので「桂小五郎」はいない、晋作も変名を使っているかなにかでやはり「高杉晋作」はいない、従って両者所在不明だとして断っている。
ではこいつ(※人名忘却)を出せと指定されて、やはり「いません」で押し通したのだが、何を隠そうそれは会談の長州側代表者であり「いません」と答えた本人だった・・・今だったら通用しませんが、当時は通用しました。本人の顔を知りませんからね。

というわけで、長州は引き伸ばし作戦を行っている。
長州は戦争をやる気満々で、この頃、薩長同盟が結ばれる。

そういえば大河ドラマ見ました?あれ、どう思いました??戦場に三味線持って現れるなんて・・そして弾の飛び交う中、敵と次々切り結ぶとか・・あれは嘘ですから。でもあの三味線、仕込刀でも出てくるのかと思ったら普通の刀で切ってましたね。ってことはあの三味線は完全に趣味で持ち歩いてたってことですね~。
指揮官があんなことしてもし弾に当たって死んだらもう負けですから!あれはありえませんから!あんなことたら指揮官失格です!晋作はちゃんと、弾の飛んでこないところで指揮してますので。ああいうことするのは、戦いで負けてて、最後の闘いになってから敢えて先頭に立って華々しく散る時くらいです。

大河ドラマを本当だと思う人が今でもいますので、念の為に言わせて頂きました。

※一坂先生のアツい思いが伝わってきました。

あと大河ドラマでは晋作が大政奉還を龍馬に託してましたけど、晋作っていうのは戦争したくてたまらない人なんです。なのであれは考えられない。
ヨーロッパはずっと戦争を繰り返してきた。その経験があるからこそ、今のヨーロッパがある。戦争をしなかったら必ずあとでなんらかのひずみが生まれてしまう。というような考えを持っていたんです。

大河ドラマでは龍馬がお見舞いに来てましたけど、実際、当時龍馬は下関にいました。
お龍のところにいたり、打ち上げ花火を無断で上げて馬鹿騒ぎしたりしてました。
でも龍馬が晋作のお見舞いに来たという記録は、どうやらないようです。
思うに、この頃はもう疎遠になっていたんじゃないでしょうか。この頃龍馬は大政奉還に向かっていますし、晋作はなにしろ戦争したくてたまらないわけですから!
この二人が合う訳がない!(強調)


※「晋作と龍馬」という講演会のお題から、知られざる晋作と龍馬のハートフルストーリーが聞けるかもと期待していた方々を絶望の淵に叩き落すような言葉でありました。

※そして二人は全然違うんだと主張したいあまりに「晋作は戦争したくてたまらない人」を連発する一坂先生(笑)。
一坂先生は、歴史上の人物が英雄化されて、間違った人物像が世間に認識されることがキライ。だから晋作の英雄的エピソードも折りあらば「あれは嘘です!」と啓蒙(?)。龍馬についても同様で、司馬遼太郎の小説によって間違った人物像が世間に定着してしまったと嘆いている。
今回龍馬伝で晋作が人気になることは嬉しいけれど、間違った姿で世間に認識されてはたまらないという気持ちがあるのだろうと思いました。
しかし「戦争したくてたまらない」という言葉は、戦争自体が好きとか戦うことが好きとか、違う意味で間違った認識を与えかねないような気もしますが^^


※しかし私は違う所でショックでした。
龍馬が晋作のお見舞いに来た記録がないことは知っていましたが、私としては、一坂先生の言うとおり二人の意見は全然違っていて仲良くはないけれど、小倉口で協力しあったんだし、病気と聞いてちょっとくらいお見舞いに来てくれてもいいのではないか?という不満があり、でも志士活動で遠くにいたんだったら仕方ないよなぁ、なんて思っていたのですが。
龍馬ってば、下関にはいた?!
これは衝撃でした。そしたら晋作のところまではすぐじゃないですか。
それで馬鹿騒ぎはしてたのにお見舞いには来なかったとは。。最高にがっかりしました。
晋作はお見舞いに来て欲しいとか全然思ってなかったんでしょうけど、勝手にがっかりします。

※でも・・重箱の隅をつついてみると、あくまで「記録がない」んだよな。
もしかしたら龍馬は一応お見舞いに行ったが、既に長州勢とは意見が違っており、晋作の側につめていた誰か(おうのとかじゃなくて)が、「なんだこいつ、どの面下げてお見舞いに来てるんだ!」とか思って追い返しちゃったとか、又は追い返すまではいかなかったけど「お見舞いに来てくれた人リスト」に書き加えなかった・・というのも、ありえるかな?!?!と、あがいてみる(笑)


大政奉還は、後藤象二郎が頑張っていた。
丁度、この辺は今日(10/24)の龍馬伝でやると思いますが、、(※多分ここで流れか何か解説)

龍馬は後藤を京都に残し色々と動き回っていたが、雰囲気的にちょっと平和的解決は無理かなぁ~と思うようになって、武器を買い込んだりもしていた。
でも京都に戻ってみたら、後藤が以外にうまくやってたんですね~~
それで後藤にハッパかけるんですが、お前こそ、後藤を上に上らせてはしご外そうとしてた張本人だろう!って感じです(笑)

結局大政奉還後に武力倒幕ということとなり、両方とも実現した(※というような意味の内容だった気がする)。

しかしながらその後の権力闘争など、二人がそれぞれ思い描いていたものとは違っていたのではないでしょうか・・・。

雨も降ってきたことだし、このへんで終わります。
どうもありがとうございました!!

<おしまい>


というわけで一坂先生の講演会でした。
薩土盟約辺りからかなり記憶が消失していました・・残念です。

確かに途中から雨が降ってきて、寒かったです。
帰るときにはもう結構しっかりと降っていたし・・

幕末維新祭りについては一坂先生関連以外について、あと1回だけしつこく書こうと思います。
松本剣志郎先生の講演会や劇、奇兵隊パレードなど、簡潔に(笑)





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Last updated  2010年10月29日 14時07分16秒
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