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カテゴリ:考古学・民俗学
西日本の両墓制に関する考察
「はじめに」 ふと私が子供の頃の事を思い出し、母の実家へ行った折りに連れられた所に、「埋め墓」と称する両墓制の片方の墓が在った。 西日本で特に近畿地方、瀬戸内海の塩飽諸島などで多く見られた「両墓制」・・・現在ではその墓制習俗が廃れてしまって一部の地域だけで残っている。 「問題点」 本来の日本人独特の「穢れ」、「祟り」などの思想的な背景から、遺体埋葬地と死者供養の墓地(墓標)を分けていた習俗だった。 しかし土葬や追葬の葬制から火葬に変化した現在、遺体の汚れは火葬の火で浄化されたと考える事で、埋葬地と墓標とが一致し一般的な墓地として広く広がったものと考えられる。 この両墓制の墓制習俗を、如何に評価するかが今後の課題になると思われる。 「両墓制」 1;埋め墓 遺体を埋葬する墓で、この埋葬地には簡単な石塔、卒塔婆、自然の木などを目印に遺体を埋葬し、埋葬以後はその地に立ち入る事は無い。 2;詣り墓 全国的に見る事が出来る墓で、石塔や角塔墓、笠塔婆などが建てられるが、遺体の骨などが墓石内に埋葬されていない。 両墓制にはいろいろなパターンが有るが、私が確認した範囲の香川県西部の山間地の習俗では、神社の裏山の谷にその「埋め墓」が在り、詣り墓は集落の近くの墓地に建てられ、どちらかと言うと石塔が近接した状態で並んでいる。 また塩飽諸島の島々では、海岸や山など集落から離れた所に埋め墓、集落の近く若しくは寺の近くに詣り墓が建てられている。 中でも特徴的な両墓制の墓制習俗を見る事が出来るのが、高見島、志々島などで埋め墓を「霊屋」と云われる小さな建家で覆っている。 佐柳島は霊屋を建てずに、木で出来た人形を立てているのを見る事が出来る。 ここで同じ香川県なのに陸上部と塩飽諸島では両墓制の墓制習俗に違いが見られる事である。 これは、水軍としての強い習俗が、陸地の習俗に混じらずに独自の習俗として残ったものと考えるのが妥当と判断出来る。 「むすび」 この様な墓制一つでも地域的な習俗の違いを見る事が出来る。 特に葬儀儀礼は、古代弥生時代・古墳時代の「殯(もがり)」が地域ごとに変化して残っている。 いわゆる「通夜」は、この「殯(もがり)」が短縮した形として残った習俗で、沖縄地方の洗骨し改葬する習俗は「殯(もがり)」そのものに近い。 しかし、大化の改新以後の「薄葬令」に依って「殯(もがり)」は簡素化される運命にあった。 それ以後の仏教的な思想に伴って、日本人の「死生観」が変化し死者への恐れが弱まってきたのも原因の一つとして考えられる。 上記のような歴史的な変遷から、大和朝廷支配下の地域や独自の習俗を持った地域では墓制制度に地域的な変化が見られ、火葬儀式が普及するまで両墓制が残った地域が在ったのではないか。 今回は両墓制を元に我々の習俗を分析したが、他の習俗を解析する事で日本人像をもっと詳しく見る事が出来ると感じる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Apr 11, 2012 01:53:10 PM
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