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劇場通いの芝居のはなし

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2019.08.02
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カテゴリ:研究会発表
このタイトルで、近現代戯曲研究会で口頭発表しました。発表の後、いろいろと賛成や反対の意見が出まして、なかなか活発な討論が行われました。
わたしは「議論」が好きなこともあり、また曖昧だったり中途半端だったりする言い方を好まないので、かなり断定的な、極端な言い方をします。それによって反対意見や、またそれに対する反論を引っ張り出したいと思って、わざとそんな風に発言しています。
 
今回、反論が出て来たのは、簡単に言うと、わたしの考える「演技」は「新劇」のもので、それは古くなってしまっており、現代の若い演劇人にはあわないのではないか、ということでした。日常のままのような、自然な振る舞いが、現在の演劇においては重要とされているのではないか。映画やテレビの演技に対して否定的に語っているように感じられるが、そうした演技が今という時代に即しているのではないか、ということです。

演技というものはジャンルにより、また作品により変化して良い、むしろ変化シテ行くものだとわたしも思っています。この場合の変化とは、"change" というよりむしろ "vary"
"variation" として現れてくるでしょう。芝居によって作り出される劇世界の気分は異なり、であれば、それが求める表現形式も変わらなければなりません。具体的に、能や狂言を演じるには、舞や謡を身につけ、リアルよりも象徴に近い表現を行わないと、あの世界は描けません。歌舞伎の時代物を演じるには、やはり大仰な台詞回しや仕草を伴わなくては、あの古風でエネルギッシュな気分は出せません。
 同様に、現代の日常的で平凡な若者たち、自分の内にこもることが多く、外の人達に対して積極的に働きかけることのできない人達を表現するには、むしろ声は小さく、動きもなく、心の動きもほとんどないような人物表現をする方が適切かもしれません。
 そういう芝居であれば、そうすれば良いのです。わたしはそれを否定していません。映画や映像の演技は舞台での演技とは異なると強調していますが、そしてわたしは舞台の演技を基礎的なものと考え、それを重視していますが、映画や映像における演技を否定したことはありません。学ぶ者が、自分でその違いを認識し、ちゃんと演じ分けられるようにと教えています。
 ただ、わたしの言い方が断定的で、また舞台演技の重要性を強調しすぎるが故に、映像の世界に心を向けている人や、できるだけ自然に見える、現実での姿をそのまな表現しているように思われる演技を良しと考える人には、非常に反感を抱かせたのであろうと思っています。

わたしは「演技の基礎」を教えています。それはおそらく、その人がどんな表現様式をもつ演劇ジャンルに進んだとしても、必要とされる事柄だと信じています。古典芸能も現代劇も、ミュージカルも台詞劇も、やはりそれを身につけていなければできないものを教えていると、自負しています。それが演技を教える教師の責任だからです。
残念ながら日本には、演技の標準というものがありません。これができれば演技者としてどこでも通用する、出来なければ専門的な演技者としては認められない。そんなものがありません。そのために、自分で苦労して見つけようとしています。
by 神澤和明





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Last updated  2019.08.02 09:00:11



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