法隆寺の「顕彰碑 ウォーナー塔」
法隆寺の西門を出て、法隆寺の土塀沿いに坂道を200mあまり北に登ると『顕彰碑 ウォーナー塔』がある(下図)このように道路から少し入り込んでいる左がウォーナー塔、右が鐸嶺塔法隆寺の故佐伯定胤管長が建立したものらしいまずはウォーナー塔よくわからないのでウィキペディアの助けを借りる太平洋戦争時、日本の多くの都市・地域に空爆があったが京都は爆撃されなかった。この事実の理由としてウォーナーが、空爆すべきでない地名のリスト(ウォーナーリスト)を作成して米政府に進言したからという説がある。(中略)京都を救ったのはウォーナーであるという話に基づいて1958年6月、法隆寺西円堂の近くに、供養塔、顕彰碑 ウォーナー塔(Warner Monument)が建立された。(ウィキペディア)しかし「一方、この説を否定する説が後年唱えられた」と、同じウィキペディアには説明がある(下記)東京大学名誉教授の平川祐弘は、ウォーナーの他にも日本の文化財保護の立役者と言われている人物が複数いるがどれも根拠薄弱であると述べ、「外国人に感謝するのもいいがするなら根拠のある感謝をしてもらいたい。」「ウォーナー伝説は日本では美談扱いだが米国では日本人の感傷的な歪(ゆが)んだ外国認識の実例として研究対象にされた。」と痛烈に批判している。塔の前にこのような説明文碑があってこの辺りの事情を説明しているのかもしれないしかし肝心の文字が読めないので役に立たないボクにとってはどちらが真実であっても直接関係はないので、この議論からは退散ついでに、右の鐸嶺塔(平子鐸嶺(ひらこたくれい)の塔)法隆寺西院伽藍の金堂・塔・中門・回廊の建築年代をめぐっての論争があったつまり、火災にあって再建された(再建論)という説とそうではなく、再建されたものではない(非再建論)という論争の中で、平子鐸嶺は「非再建論」を唱えた人であるおおよそ以上のような事情がわかったこの論争は100年にわたって続いたという60年も前になる学生時代日本建築史で説明を聞いた記憶が蘇ったいま思うと、教授の説明に相当熱が入っていたその後、戦後の建物解体修理等に伴う発掘調査の結果現在では「再建説」に決着しているという気まぐれな法隆寺訪問で ウォーナー塔を訪ねたばかりに思いがけなくも、太平洋戦争終戦前後の米国人評価の事情法隆寺西院伽藍の建築論争のことまで知ることになった以前ならたくさんの資料をあさる必要があったが今はインターネットのおかげで、簡単に資料の入手が可能インスタント学問には実に便利な時代である