今月のエッセー「突然の入院」
今月のエッセーは先ごろの入院のことを書いた。体験談は比較的作品にしやすい。ただ、ブログにも何度か書いたのでブログ読者には、またかと思われるかもしない。「突然の入院」 十二月の初め、思いがけないことで入院する羽目になった。 前兆はあった。その日は朝から頭が重く少々熱っぽかった。午後四時から、翌日に予定している会合のため、会場の机の配置や資料を間仕切り壁に張り付けるなどの作業を、数人のメンバーに頼んでいた。 予定より少し早めに会場に行った。ところが、である。あらかじめ決めてあった机の配置は頭にあるのだが、それを言葉にして伝えられない。考えていることが言葉にならないのである。脳の働きを言語の器官に伝える神経がぷつんと断線している。ただおろおろと、机をあっちへやったりこっちへ動かしたりしていた。カミさんをはじめ、その場にいたみなさんが、これはおかしいと気づいて、地元のクリニックへ連れていってくれた。そこで隣町・京田辺市の総合病院を紹介されて、会場準備のメンバーの一人の車で送ってもらうことになった。ボクの記憶はその車に乗りこんだところで、完全に途切れている。 意識が戻ったのは翌朝のこと。と思っていたのはボクの勘違いで、実際には二晩経った三日目の朝のことであった。気が付いた時は両手両足を拘束されていて、窮屈なことこの上ない。無理やり引き抜こうともがくが無理であった。そのうち、ベッドサイドに現れたおそらく主治医だと思われる白衣の男性に、拘束を解いてほしいと頼んだ。その人はあっさりとそれを解いてくれた。先生はボクの意識が戻るの待っていてくれて、「よーし、これで良し」と安心して「拘束を解いて」というボクの願いを聞いてくれたようだ。 一方、家人の方はコロナ禍の入院のため面会もかなわず、「意識が戻るまでに四、五日はかかるでしょう、意識が戻ったら連絡するから心配しないで家で待機するように」と言われた。それ以上どうすることも出来ず、不安が消えないままに病院の指示に従うしかなかった。また入院時にはボクがストレッチャーの上で暴れるもんだから、拘束の同意書を書いたことも退院後に知った。 親切な看護師さんがいて、意識が戻ったことをカミさんに電話で伝えた後、ご主人の声が聞きたいでしょうと、携帯電話をボクのベッドまでもってきて話をさせてくれた。ただボクは一晩で目覚めたと思っているので、当日の行事のことばかり話して、カミさんと会話がかみ合わなかった。 結局、九日の夜に入院、意識が戻ったのが三日後の十一日、退院はその三日後の十四日ということで、六日間の入院であった。意識が戻った翌日には、カミさんからスマホが届き、NHKのラジオが聞けるようになり、何とか退屈しないで過ごせたのはありがたかった。また病院の好意で、先生の話を一緒に聞くという理由で、病室のある六階の医務室でカミさんと娘に会えたのもうれしかった。 脳のMRIは念のため二度やったが異常なし。病名は「てんかん複雑部分発作」で原因は不明。退院後は外来にて経過観察をする、車の運転以外は農作業や山歩き、飲酒など、普段通りの生活でよろしい、ということであった。 WEBサイトで調べると、通称は「高齢者てんかん」と言われており、原因は脳卒中が30~40%と最も多く、また全体の25~40%は原因不明ということらしい。主治医の説明通りである。 さて、退院から十二日後の、二十六日は、退院前日にやった脳波検査の結果を聞きに行った。幸いなことにこれも異常なしで、脳の方は大丈夫らしい。次は二月にもう一度、脳波検査を行い、結果によっては車の運転を考えてもいいな、という主治医の話。これを聞いて気持ちが明るくなり、これでいい正月を過ごせそうだと喜んでいる。(2022年12月)