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カテゴリ:生きる事の喜びと悲しみ
今朝のニュースで、もうひとつ悲惨なニュースを知った。
O市の川ベリに住みついていたホームレスが殺されたというニュースでした。 ここ数日O市では、公園などに住みついたホームレスが何者かによって殺されるという事件が頻発しているらしい。 金目当ての犯行がほとんどらしいが、ホームレス自体が、その日暮らしで、所持金もほとんどなく、僅かなお金が盗まれている。(6~7千円) 悲しいというより、やりきれない想いになる。弱者を標的にしているからだ。 各県にはホームレス救済の団体も各県にはあるにはあるが、それでもホームレスの数は相当数いる。 ホームレスになる原因は様々ですが、 借金苦から逃げてきた、あるいは、定職もないため収入もなく、アパートの家賃も払えなくて追い出されたり・・。本当に様々です。 彼らの収入は「缶拾い、アルミ線集め、など。」 働く意欲のある人は「日雇い労働」に行く人もいる。 彼らは規律は嫌い、縛られるのも嫌い、だから日雇いが一番労働条件にあっているような気がする。 一日働いて、日銭をもらい、翌日は仕事はやめ、 週一回の行政の炊き出しもあるため、比較的食は満たされるようだ。 家財道具は、廃品回収から探してきた、使用OKのストーブ、コンロ、やかん、テーブル、 布団などなど、 私の知っている人は、にわとりまで飼っていた。 家族を捨て、世を捨て、彼らはでも、結構自分の事を冷静にみつめている気がする。 しかも思ったより元気な生活をしている。 生きていくという事は、ある意味、時には想いもよらぬ挫折をも味わう。 挫折した時、人は人に裏切られ、ののしられ、また、人の優しさに出会い、生きる力と勇気を教えてもらう。 生きるということは、この繰り返しなのだと思う。 だからこそ、弱者(この場合の弱者は、子供やお年寄りや、病気の人や、生きる気力をなくしている人)に対しては、時には叱咤激励し、時には、こころのぬくもりを感じさせるように接したい。 私が裕福だからでもなく、貧乏だからでもなく、偽善者だからでもない。 同じ人間として、同じ大地で生きている者同士だから。 生はすばらしいと思う、 生きて、笑って、泣いて、生きぬいていくべきだと思う。 お金は生きるためのただの道具ではないか。 そのお金のために、自らの手で自分を抹殺した私の家族の分まで、私は生を謳歌したい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
November 23, 2006 12:15:05 AM
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