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カテゴリ:好きなもの
先週の金曜日から日曜日まで2泊3日の旅にでかけていました。
もちろん、仕事がらみですから、完全オフではありません。 しかし、自分なりに、合間の時間に、駆け足のプライベートを楽しんできました。 21日は東京で忘年会参加・・・これは後で詳しく報告いたします。 22日は夫の仕事で静岡に移動しました。 ある港町の魚市場の近くでしたので、昼食を市場の食堂で食べましたが、新鮮な魚料理は最高のおいしさでした! (駿河湾で水揚げされたばかりの魚やえびを目の前で料理してくれます。) 午後から、夫は3時間ほどのセミナーの講師で呼ばれていましたので、 その間、私は以前、一度だけ見に行ったことのある美術館に行くことにしました。 「ベルナール・ビュフェ美術館] 美術館に向かっていく・・ 私が「ビュフエ」の絵画に出合ったのは約10年以上前。 ある雑貨店でみかけたポスター画がきっかけでした。 ビュフェ独特の細く神経質そうな直線、色彩も暗く、でも、何かを訴えるような絵画の世界に虜になりました。 私の自宅は、ほとんどがビュフェの絵ばかり飾っています。 パリの教会・ニューヨークの街並・大運河・コートダジュールの港etc・・・・・。 ポスター画がほとんどですが、一点だけリトグラフがあります。(結構高かった?) ビュフエが幼い頃に好きだった蝶のモニュメントのある正面玄関 私が訪れた日は丁度「ビュフェとアナベル」という企画展が開催されていました。 2007年9月6日(木)~2008年1月15日(火) significant others ------誰もが求めてやまない。もうひとりの自分 弱冠20歳にしてフランス画壇に現れ、独自の画風を築きあげた具象画家ベルナール・ビュフェ。 エキゾチックな美貌でパリの華となった、アナベル。 多感な思春期の戦争体験と、幼年時に抱いた家庭内の不和という似通った陰をもつ2人は、 1958年、運命的な出会いを果たす。 戦後の熱狂渦巻くフランスにおいて、 フランソワーズ・サガン、ジャン・コクトー、ジャン・ジオノら文化人との交流をもつつつ、孤高の画家だったビュフェ。 そして、彼を終生支えたアナベル。 彼らは41年という歳月を、冷めやらぬ情熱で、互いを深く愛し、尊敬し、その才能を高めあい、夫婦として、「significant others 」重要な他者として共に生きた。 2人の生い立ちから出会い、戦後の美術や当時のフランス文化を紹介しながら、 アナベルをモデルに描かれた作品、ビュフェとアナベルの言葉、写真等を展示し、南フランスで芽生えた愛の奇跡をたどります。 ※ベルナール・ビュフェ (1928~1999) 1928年 パリに生まれる。 7歳の時両親は離婚。母親と暮らす。 15歳・ナチス.ドイツ占領下 パリの夜間講座に通い、その後国立美術学校に合格。 17歳・アトリエ作品受賞。母死去。 20歳・一度目の結婚。この頃は世界各国で毎年のように個展が開催される。 30歳.アナベルと出会い結婚。 その後の彼の作品は、細かった線が太く力強くなり、色彩も赤や青など、明るい色で描かれるようになった。 作品のほとんどがアナベルをうかがわせるものがおおくなり、彼のその後の人生がいかに愛に満ち足りていたかがよくわかる。 22日の夜 怪しかったお天気も 雨に変わり、私達は富士から中央道に向かっていましたが、富士の裾野に入る頃は白い雪が舞い、とうとう吹雪になりました。今年初めて出会えた白い世界でした。 中央道からそのまま雪の高速道路を長野の友人のペンションに向かいました。 今晩の宿泊先です。 途中、小用のため、小淵沢のケーキ屋さん「シャンペトル」に立ち寄りましたが、その間, 樹木も道路も白銀の世界。(きれいでしたよ~。運転する夫にはすまないですけど・・) 深夜に標高○メートルの高原のペンションに到着したわけですが、 ここににくるまで、ずーとアイスバンの大門街道とビーナスラインを運転し続けた夫には、 本当に感謝しました。 {そして、彼を終生支えたアナベル。 彼らは41年という歳月を、冷めやらぬ情熱で、互いを深く愛し、尊敬し、その才能を高めあい、夫婦として、「significant others 」重要な他者として共に生きた。} 彼らの残した言葉と絵画の数々は、夫婦として見習うべきことが多くありました。 毎日の生活の中で、ややもすると、空気のような存在になってしまい、相手の気持ちを思いやることも忘れてしまうのではなく・・・・ 夫婦として尊敬し合い、自分を高めあい、静かに深く相手の心をいたわりあい、そんな夫婦になりたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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