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テーマ:海外生活(7773)
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新し年号が令和に決まった。
一番最初に感じたのは、発音に困るなーということだった。 でも素敵な年号だと思う。 平成もあと1か月を切ったが、平成最後の年は私にとって悲しい年になった。 怒涛の3月だった。 母が入院しており病状が思わしくないという青天の霹靂のようなメールを父から受け取ったのが2月27日の夜。翌2月28日はSchmotzige Donnerstagで仮装して会社に行く日だった。事務所の中も色とりどりに飾り付けられ、お祭り気分だった。お祭り騒ぎに同化しないといけないのが苦痛ではあった。 翌日の金曜日に、母の看病のため長期休暇が欲しいと社長にお願いした。社長は理解を示してくれたが、インフルエンザで休んでいる人も多く、私の仕事を代われる人がいないから今すぐは困る、自分の仕事は片づけてから行くようにしてほしい、といった。そして同僚のNさんから了解を取れれば3週間ぐらい休んでもいい、といった。Nさんは翌週の月曜日、火曜日と休みを取っており、スキーに行くと話していた。楽しい休暇の前にネガティブな話をして水を差すのも悪いと思って、Nさんが休暇から帰ってきてから休みの日程は相談しようと思った。 会社から帰宅後に姉と話して、母の病状は私が思っていたよりもかなり悪いことがわかった。それでも帰ってきたほうがいいとは言われなかった。新しい薬を投与しはじめたので、まだ希望はあると姉は言っていた。 夫は「すぐに帰国しなよ。飛行場まで送ってあげるよ。」と言ってくれたが、締め切りまじかの仕事を残して行くのはためらわれた。少なくともNさんに仕事の状況を話してからいくべきだと思った。それでNさんが出勤する水曜日の午前中に引き継ぎをして、水曜日の夕方に出発するフライトを予約した。 月曜日に社長に話すと、「えっ、もう行くの?」と難色を示されたが、仕事を片付けていくこととNさんには水曜日に報告してから行くと伝えて、了解を得た。 木曜日の夜に日本に到着し、金曜日の朝に母の病院に行った。母は本当にやせ細っていて、酸素マスクを当てていた。終始苦しそうで、再会を喜ぶような瞬間はなかった。 その2日後母は亡くなった。 一緒にお正月を祝った2か月後にこんなことになるなんて、誰にも想像できなかった。 たくさん悔いは残っているけど、最後にお正月を一緒に過ごせたことと、看取ることができたことは幸せなことだったと思うしかない。海外に住んでいると、すぐに会いに行けないし、しょちゅう行ったり来たりすることもできない。だからこそ家族も私に帰って来いと言いづらいし、心配をかけるだけだから、病状を報告もしづらかったのだろう。 母も私に心配をかけたくなくて、お正月は無理をしていたのかもしれない。 ドイツに戻ってきてから1週間がたち、すっかり日常に戻った。 なんだかいろいろなことがいまだに信じられない。夢を見ているようだ。 もともと母とはあまり電話もメールもしていなかった。母は私の近況はブログを通して把握していた。だからドイツにいる限り母との距離は今までと同じように感じる。 喪失と言えば、賢浩も運転免許を失った。 木曜日の夜に友人とバーで飲んだ後、友人の車を運転して帰宅途中、警察に検問され、その場で免許を没収されたそうだ。かなりアルコールを飲んでいたらしく、基準値を大幅に超えていたようだ。なぜ賢浩が友人の車を運転していたかと言えば、その日は友人も賢浩のWGに泊まることにしており、賢浩のほうが道がわかるからという理由。不運だったとしか言いようがないが、自業自得ともいえる。法廷に出廷するようにという手紙が警察から届いたようだ。今後どのようなプロセスになるのかよくわからない。 本人は「馬鹿なことをした。取り返しがつかない。僕の履歴に犯罪歴が残る。」とものすごく憔悴している。飲酒運転が犯罪歴に残るのかどうかは知らない。また免許再取得のためもう一度試験を受けなおさないといけないのかもわからない。でも人身事故ではなくてよかった。代償は大きいけれども、これを教訓に今後の人生で2度とこういうことは起こさないようにしてほしい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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