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カテゴリ:イタリア生活
昨日子ヤギの肉を食べた話を書いたのだけど、その肉を食べながら夫とあることについて話し合ったの。
と言うのも、夫、「(子ヤギの肉を上手に料理する)おばさんは、(おじさんが)農家で買ってきた肉で料理していたから、彼女が料理する子ヤギ肉はもっと野性的なヤギの独特の臭みが強い味がした」って言ったため、私の中で、ヤギを食べるために育てている農家のイメージが膨らんじゃったの。 で、ふと、ある農家に遊びに行ったとき、ウサギ小屋があって、昔ウサギを飼っていた私としては「かわい~、ウサギ~、葉っぱ食べるぅぅ??」と思わず和んでしまったの。ところが、「それ、食べるために飼ってるウサギだよ」という一言が背後から降ってきて、固まった・・・。 ・・・・・・食べられてしまうのか、この子たち。 食べるために肥やしているのか、ここの農家。 こんなにかわいいのに・・・。ああ、この子たちはあんなことやこんなことをされて殺されて食べられちゃうんだ・・・。 ・・・という出来事を思い出した。 それで、夫に、「豚にせよ、鶏にせよ、自分の家で動物を肥やして食べるって神経が分からない」と言った。 夫、「俺には猟をする奴の気が知れない」。 猟はね、まだ分かるのよ。人間は(動物は)古代から猟をして生き長らえてきたわけだし。 「そんなこと言ったら、古代から動物を自分の近くで肥やして食べてた奴だっていた」 う・・・ごもっとも。 彼ら家で動物を肥やして食べる人たちにとっては、それが当たり前なんだよね。私たちが牛や豚の肉をスーパーや肉屋で買って食べるのと同じで。 小さい頃からそういう生活をしていると、それが当たり前になっちゃうの。買った肉よりも家の肉の方が数段美味しいわけだし。 そういう点は私も認める。 私の父、イノシシの漁をしている友達がいて、父もたまに猟に行っていた。私にとって猟は当たり前で、父が持って帰ってくる新鮮なイノシシの肉も当たり前で、買ったイノシシの肉なんて食べられないって思う(今でも)。 夫は猟も魚釣りも大反対。私は楽しみのためにする猟や魚釣りは反対だけど、食べる目的なら賛成。 小さい頃から父と一緒に漁に出ていたので(うちの父は山男で、もちろん湖や川に漁に行く)、小さい頃から魚をさばくのも全然抵抗がなかった。 この間、マスを買ったんだけど、腹を出しているとき、調理用ハサミがあんまり良く切れなくて、ハラワタが切れなかったのね。で、ハラワタをグッと掴んで、引っ張ってみた。切れた、は良いけど、手が血まみれで内臓がへばりついている・・・。 そんな光景を見て、夫、「何してるんだ、お前は~~」。 いや、単に腹割いてただけなんだけど・・・。 私は慣れているから全然平気なんだけど、こういうの駄目な人いるでしょ? 血が嫌で魚裁けない人。 家で動物を肥やして食べる、というのも、慣れの問題なんだろうなぁ。 でもさ、買ってきたもの、狩ってきたものにはまったく愛情がないから裁いたりもできる。でもさ、でもさ、しばらく家で飼っていると、いくら食べるためとはいえ、ちょっとでも愛情がわいちゃったりしないのかな? 彼らは、それが「いずれ食べるもの」であって、愛情じゃなくて「美味しく育ってよ」っていう情しかないんだろうな、って結論。 肉になる牛や豚を育てるのを商売としている牧場と同じ。 要は、慣れ、なんだね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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