執筆業は本業?
私の知人に、わが町でテニス・コーチをしている青年Mがいる。彼は、子供の頃から、テニスが好きで、テニスコーチになったのだが、30歳近くになっても、テニスコーチの収入だけでは食べていけない。 そんな彼は、常々、「人生には、自分の好きな仕事と、食べていくための仕事がある」と言っていた。裕福な家庭に生まれたMであるが、彼の乗っている車は、ガタガタと音を立てて走るポンコツ車。「その車で、高速道路を走れるの?」と、心配しなければならないほどのオンボロ車だ。マフラーが路上で、ポトンと落ちたこともあったかな。(笑) アメリカ生活には、高速道路を軽やかに走る車が必需品。しかし、彼には、その車を買うお金がない。好きな仕事をして生きていくということには、大変な”勇気”がいる。 ウン十年前に渡米した私には、ジャーナリストになりたいという夢があった。アメリカの大学、大学院でジャーナリズムを専攻した私は、キャンパスで、多くのジャーナリスト志望の学生に出会った。 しかし、卒業が近くなると、ほとんどの学生は、専門をジャーナリズムから、パブリック・リレーションズ(public relations)に変えた。print journalismを専攻し続けた私は、「ブルータス、お前もか」と、ちょっと、裏切られたような気持ちがした。(大学の専門は、newspapers,magazines and public relationsの3種類。) 当時のアメリカのジャーナリストの初任給は、2200ドル前後。しかし、企業の広報課に勤務すれば、3000ドルは貰えた。 アメリカの大新聞の『ロサンゼルス・タイムズ』でも、初任給は3000ドル。アメリカの大新聞は、大学新卒を雇わず、大学卒業後、小さな新聞社で数年の経験を積んだ有能な記者しか雇おうとしない。そんな涙ぐましい2200ドルの記者生活を続けて、大新聞に就職しても、3000ドルの収入しか貰えないのだ。 「好きな仕事より、お金になる仕事」。 しかし、私は、「お金より、好きな仕事」と思った。しかし、それでは、私も、ポンコツ車しか買えない。 1990年に、私は、アメリカで、不動産賃貸業(投資)を始めた。俗にいう大家の仕事。私の実家は、曽祖父の代から、大家をしていて、祖父も父親も副業に大家をしていたので、子供の頃から、父のすることを見ていて、大家のノウハウを知っていた。 1985年前後のロサンゼルスで、学生をしながら、ロスの土地バブルを見ていて、「カリフォルニアの土地は上がる」と妄信したことも、私の土地信仰につながった。 不動産賃貸業を始めて、今年で15年。最初の5年間は、冬の時代というか、当てが外れたというか、土地の値段が下がり続けた。しかし、私は、成金をめざして、不動産を買い続けた。(今思うと、恐ろしいほどのバカ。運が悪かったら、大借金もちになっていた。) 2000年から2005年に、カリフォルニアで土地バブルが起こった。バブルの恩恵をもろに被った私は、アメリカン・ミリオネアーになった。価格が4倍になった物件もある 現在の私は、とりあえず、食べることを心配せずに、writerの仕事をのんびりと続けていける。 alex99さんから、「執筆業は副業ですか?」と訊かれたが、私は本業と答えた。”道楽ものの本業”を”ケナゲな副業”が支えているというのが、今の私の生活。私も、テニスコーチMと同じ匂いのする人間。(Mより、ちょっと、運がよかったけれどね。)ワイン備忘録:Mia's Playground,Chardonnay, 2002, Russian River Valley(8月下旬から9月初旬にかけて、私の大家業の繁忙期なのですが、今日、最後の入居者さんが、入居してくださいました。これで、空室率0%になりました。一年契約なので、これで、また、のんびりと暮らせそうです。今日は、祝杯代わりに、シャドネーを水代わりに飲みました。ああ~、飲みすぎだ~。でも、明日から、これで、早起きもしなくてすむので、貧乏作家の生活に戻りま~す。ビジネス・スーツを脱ぎ捨て、また、Tシャツ、短パンの生活の始まりです。)