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カテゴリ:マンガ
昨日は、帰宅してから、『陰陽師2』をボーっと観ていたら、いつの間にか熟睡。
扇風機を回しっ放しだったので、喉が痛い。 夏風邪には、気をつけねば。 さて、まずは訂正。 先日、ゾンビなアメコミ『ESCAPE OF THE LIVING DEAD』について書いた時、最後に「なんとなくサビーニっぽいなぁ」と書いたのは、もちろん、ボスゾンビがサビーニに似ているという意味だったのだが、『チルドレン・オブ・ザ・デッド』にはゾンビのサビーニは出てきませんね。 『ランド・オブ・ザ・デッド』と記憶が混濁。 いつものことながら、今更、『デスノート』読了。 以下、ネタバレあり。 以前、2,3巻までしか読んでいない時に書いた記事が消えてしまったが、その頃から危惧していた倫理観の問題を、キラとニアの対話として、単純な二元論で一旦解決しておいて、その後、善悪の価値観を相対化するシーンを入れることで、もう一度、相対的な道徳観を提示して、物語を平板に終わらせなかったのには、好感が持てた。 また、どう導入するのかと思っていたジャンプ三原則を、エル、ニア、メロの協力という形で提示してみせた。 ただ、これは、善悪の価値観が相対的で、ゲーム的な物語の中では、若干、陳腐に映ることは否めない。 死神や殺人ノートを設定することで、ファンタジーの衣を纏わせ、まともに取り上げればキナ臭くなりがちな物語に、緩衝材の役割を与えたことは、以前も書いたが、ラストで、死神に死神の役割を果たさせることで、再びこのことを意識させる演出を行なっていた。 『刑事コロンボ』に似た心理戦を強調したミステリー的なエンターテイメントとして連載するために、一旦、本来は前面に出てくるべき道徳観を棚上げにした。 「少年誌連載」もこれにスピード感を加える結果となる。 しかし、その一方で、「キラとニアの対話」を生む事実上のエンディングに向けて、後半から急激に方向転換を図ったように、キラはシリアルキラー色を強くしていく。 後半のキラには、好感を持てるようなネズミ小僧的なアンチ・ヒーローの肖像はなく、そこには、独裁者の妄想だけが残った。 まさしく、『デスノート』の物語展開は、ファシズムの台頭から終焉までを描いていると見ることも可能なのではないか。 そうすると、善悪の価値観を曖昧にした意味も、3人の協力が陳腐に見える理由も、敢て道徳観を初期のうちに展開しなかったのも、すべてが狙いだったのではないかと思えてくる。 何にしろ、本作が、死神や殺人ノートをうまく狂言回しに用いた、一級のエンターテイメントであることは、確かだと思う。 本来、ここで小畑健の作画面での技巧も書くべきなのだが、眠いので、ここまで。 前半と後半のキラの描き分けや小道具の使い方(↓こんなのとか)など、注意してみるとなかなか面白いですよ。 <追記> 個々のキャラクターの魅力も少しは書きたかったが、まぁ、それはどこかでやってるだろうからいいか。 それよりも、上記の文章には、説明不足のために、誤解を招く可能性がある箇所がいくつかある。 その中でも特に気になる箇所に少々加筆。 上記の文章で、「『デスノート』の物語展開」と言っているのは、本作の中の物語や世界の話ではなく、『デスノート』を読む読者の劇中の人物への感情やメタな視点を含む「物語」そのもののこと。 むしろ、読者の側のそれにファシズムの特徴が見てとれるのだが、その意味では、前半のキラに共感もしくは好感を持ち、後半のキラに嫌悪感を抱いたとしたら、それは全うな反応であり、恐らく作者の狙い通りの効果を得られたと言えるだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年07月26日 02時00分15秒
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