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テーマ:ニュース(100232)
カテゴリ:ニュースも時々
作家の坂東眞砂子が間引きをしているとして話題になっている。
痛いニュース http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/770743.html 発想の始まりが猫はこう思っているだろうだから、後の混乱はほとんど準備されているようなものだが、続く避妊と間引きが「生」によって別つと述べた直後の「どちらも同じ」発言の論理性のなさ。 お猫様のお言葉を創作して論を進めながら文末で飼い主の選択に至るならば、初めから避妊におけるメリット、出産におけるリスクを考慮して(ここの知識は欠落しているが)、外国における避妊・間引きについての考察を軸に据えればよかったはずだ。 また、『我輩は猫である』的非論理性ゆえに、猫と人間とを安易に同一視して、議論を進めてしまう誤読を生むことになる。 猫と人間の「生」の定義が一致するというトンデモ説はさておき、文意からすると「生」とは「より自然」ということだろうか(ただし、交尾に拘っているので生の営みと捉えてもいいかもしれない)。 自然が人工より優位に立つとする考え方自体も、生きていくことの苦しみや見苦しさ、恥ずかしさなどを覆い隠す免罪符にすぎない。 『「森を守れ」が森を殺す!』で田中淳夫が述べたように、きちんとした「管理」が必要なのである。その意味では、避妊を選択肢に入れられない(入れる必要のない)場所では、間引きが選択肢に入ることは十分にありえる。 ただし、このエッセイを読む限り、崖のから放り投げるだけで、きちんと殺しているのか分からない。 なるべく痛みのないように、速やかに撲殺するのが正しい。 だからだろうか、文末の「それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けて」という作家的な物言いから察するに、屠殺差別や生命観の多様性を含めた「殺すこと」への問題提起を狙ったであろうこの露悪的な一文が、自己の正当性を糊塗し、免罪を声高に叫んでいるようにしか感じなくなる。 昨日も少し書いたように、これらの論理矛盾や思考の脆弱さは厳密な学問の質の問題になるので、作家の資質の問題にすぎないから、実はさほど問題ではない。 ジョナサン・ローチが『表現の自由を脅すもの』で述べたように、どんな考え方だろうと「表現の自由」のもとに保障すべきであり、そのうえで冷静に批判を行なえばいいのであって、この程度のことで煽られて苛立ち感情的に喚くのはどうかしているし、不買運動など愚の骨頂。 やはり動物愛護運動はファシズムなのだろうか。 とはいえ、捕鯨問題にも垣間見えるこの感傷にはそれなりの根拠があるとする立場もある。 pal-9999の日記 http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20060821/p1#c 議論としては、捕鯨問題初期にあった「家畜を屠殺して食べているのに、何故クジラはダメなのか」を「猫殺しがダメでゴキブリ殺しがありなのか」に転換した問題提起に対して、「進化論から見ると矛盾はしていない」と答えるものだ。 食べてはどうだろうかという議論もあるから、捕鯨問題とさほど変わらないわけだ。 因みに、唐沢俊一の『大猟奇』によると、毛色の赤い赤ネコが旨いらしいが、口臭が堪らないという。 ネコは皮が厚くて剥ぎにくいので、お尻の辺りに切れ込みを入れて、そこから空気入れでシュッシュと空気を入れると、真ん丸に膨らんでキレイに肉と皮が剥がれるらしい。 その直後に、ネズミの胎児を漬けた酒が出てくるが、もともと取れる肉の量が少ないネコのさらに子猫を食べるとすれば、この方法が良いような気がする。 pal-9999さんの理論は厳密にはダーウィニズムではなく、今西進化論のほうに近い。 これはこれで興味深く、母子関係は「本能」により成立するのではなく、「可愛い」から育てる何らかのプログラムによるのではないかと仮定する。そして、この感情が外に向いて、「可愛い」ものを殺すことに倫理的違和感が生まれると。 ただ、この仮定を肯定するとして、「可愛い」対象を殺すことが翻って、倫理的な違和感につながるというのは飛躍ではないのか。 文末に触れられているように、ナチスの優生学のように民族の優越性を証明するために科学を素朴な形で援用することには危険がある。 それに止まらず、『知の欺瞞』でアラン・ソーカルが「ポストモダニズム」思想の分野での自然科学の濫用を批判したように、哲学と自然科学の安易な越境は誤りである。 また、母子関係に限定するなら成立しうる「可愛さ」のプログラムも、いったん外に向けられれば、単なる価値観になるのではないのか。一体、子供の「可愛さ」と「可愛い」存在との、「可愛さ」の論理的な同一性を提示することができるのか(補)。 ここに至って、『性の署名』でジョン・マネーが主義主張から事実を捻じ曲げ、『ブレンダと呼ばれた少年』でジョン・コラピントにより告発された経緯が思い浮かばなくもない。 坂東の文章自体が錯綜しているうえ、本来は別々に論じられるべき問題が混在しているため誤解を招きやすいが、論理と倫理とは別々のものだ。 粗暴で良心の呵責のない人物というのはいつの時代もいる。 猟奇事件を扱った書物にいくらでも見つけることはできる。確か『ドキュメント日本人』にも、何の理由もなく、ただただ人を殺し続けた男の話が載っていたが、こういう異常性も極めれば史上に残ることになる。 実のところ、相手に良心がなければ「殺してはいけない」という倫理なりは通用しない。 これは「なぜ(人を)殺してはいけないのか」論争を通観してみれば分かるように、「殺してはいけない」という絶対的な理由はなく、法律・倫理・社会・宗教といった関係性の中でのみそれは存在する。 また、坂東は「確信犯」的にこの文章を書いているので、いまさら「鬼畜」だの何だのと罵ったところで、「そうだ」と言われるだけである。 しかしながら、捕鯨問題と同じく、「殺す」理由が合理性を持っているからといって、非難する側は決して納得なんぞできない。 そんなことよりも、環境保護団体よろしく世論を煽って、法で規制したほうが手っ取り早いと思うだろう。 外国の法律ではどうこうと述べる向きもあるが、法が全て「善」であり、普遍性を持つとするのは、あまりにも楽天的すぎる。大体、タヒチにその法があるかどうかも不明だ。まぁ、あった所で、坂東本人が刑罰を受けるだけの話だが。 以上の考えは物事を分かり易くするために、敢て「(人を)殺す」を用いたが、では、もっと単純に啓蒙できない倫理などは無用かというと、そうではない。 言葉の限界、論理の無力さを知り、現実の非情さを自身の内に受け入れ、極論すればプロテスタント的に身を律していくしかない。 倫理とは外に発するものではなく、如何にして引き受けるかということのはずだ。 無力さを自覚したうえで、それでも粘り強く考え、外部に頼るのではなく、答えを見つけるために問うていくしかない。 倫理を語りたいならば、外にではなく、内に語りかけよ。 最後に、ろくに避妊もせずに孕んだからといって中絶することに寛容なくせに、たかが猫が間引かれたくらいでここまで怒り心頭する人々の気持ちが微塵も分からない。 ひょっとすると、明確な論理性に裏打ちされた理論なり、書籍なりがあるやもしれないので、ご存知の方はご教授いただけるとありがたい。 タヒチで殺される子猫に騒ぎ、川で死んだアザラシに涙する。 変な国民だ。 かく言う私も捕鯨問題について少し書いた手前、「子猫殺し」の喧騒に首を突っ込む羽目になった。 これを書き上げるのに関連サイトを閲覧したり、手持ちの書籍をひっくり返したりで、できるだけ新鮮な昨日のうちにアップするはずだったのに、今日になってしまった。 暇なものだ。 滅多に書かない時事問題ですら情報が古いのはご愛嬌。 補論: 周りの自然(他の生物)から見て意味のある形態を持つことが有利に働くことはありえる。 例えば、擬態などの方法で、鳥などの捕食者から身を守る。また、毒のある芋虫に模して、鳥から身を守るのもいる(名前は忘れた)。 ただ、擬態の一例として、「可愛さ」があるとは聞いたことはない。 パンダの白黒模様がそうだとする説もある。だが、白黒が「可愛い」なら白黒のホルスタインも十分に「可愛い」。 また、犬や猫は人間に守られるために「可愛く」なったとする説もあるが、これは全く逆で人間が愛玩用に品種改良したとすることもできる。 結局のところ、獣を「飼う」には無害でなくてはならない。無害なら「可愛い」のも当然で、危害を加えられれば腹も立つ。 いや、それは愛情の注ぎ方云々と言うなら、やはり「可愛い」は概念であり、価値観でしかなくなる。 また、カッコウなどの托卵の場合、巣にある卵を温め、孵ったヒナの声を聴き、パクパクしている口を見て、自分より大きなヒナに餌を与え続けるオートマチックで、本能的なもののようで、形態だけでなく、場所も重要なようだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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