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カテゴリ:ホラー映画、好きです。
3連休は暇なはずだったのに、昨夜は唐突に飲みに誘われて、今日も一日付き合ってまして、夜に帰宅。
しかも、下書きしたものが物凄くゴチャゴチャしてまして、文体も変えて書き直してみたら、時間はかかるわ、余計にゴチャゴチャするわでロクなことになってません。一応、前回の続きですが、ネタバレなく書こうと思えば書けるもんですね。 『呪霊 THE MOVIE』は前3作の好評を受けて劇場版として作られたものらしい。果たして、これが好評であったかは知らない。まぁ、採算がとれなきゃなきゃやらんでしょう。 劇場版ということで、出演者に見た顔があったり、映像のクオリティもOVの前3作と比べると高くて(注1)、かなり資金があるなと。 それはそれとして、本作の監督は『呪霊2 殺人現場の呪い』の村上賢司。前作で自主制作映画チックな冗談じみた映像でズッコケさせてくれた(注2)だけに、何かやるなとは思ったけれど・・・。 第1話は病院の心霊ホラー風に始まる。病院怪談の定番から巷間に広く流布した怪談まで引用しつつ、雰囲気作りもまずまず。 ところが、友人がその病院にまつわる因縁を嗅ぎつけたあたりから、一変して西洋的な猟奇ホラーに突入。満月の夜にマッド・サイエンティストによって捧げられる生け贄と、「悪魔的」なモノを連想させるタームを散りばめた展開になります。 このブツリと切れた物語をみると、改めて和製ホラーと欧米ホラーでは質が違うのだなと感慨深いですね。心理的恐怖と肉体的恐怖の対比として鮮やかに現れる相違にとどまらず、湿度の問題だなと。後半の展開は、どこかコミカルな感じが漂っていて、演出もそれ相応に変えてあることからすると、恐らく狙ってやっているでしょう。 第2話はお得意(?)の不条理コメディ。「ソフト麺」の兄ちゃんもキャバクラの客として再登場。ラッキーレッグス(誰?)が「くノ一研究会」で登場して、水着や濡れ場のサービスをしてくれます。 水着シーンの尺がやたらと長かったり(『チアーズ!』で制作やお偉方が嬉々として撮影に参加した洗車シーンを思い出しましたよ)、女の子同士が鼻に縒ったティッシュを入れてコチョコチョするフェチに没入したりと、やりたい放題ですか! しかし、あらかじめオチが分かっている状態で長々とネタを続けたりしていて、恐ろしく脚本がヘタなんだが、魅せるべきところが違うからこれはこれでいいのか? そして、第3話は前回ネタをバラした通り、始終なにも起こりません。 空虚で絶望的なリアリズムに貫かれていて、「不条理」は襲ってはこない。むしろ、死という不条理がただのっぺりと横たわっているだけ。この即物的な死をどう受け入れていくのか、つまりフロイトの言うところの「喪の儀式」がここでは主題となるわけです。 そして、「喪の儀式」から派生する「死への不安」。それも最も単純な虚無感。「死にたくないよ」との呟き。恐らく小学生を配役したのもそのためでしょう。 また、梅原猛がハイデガーの虚無思想の毒気にあてられたように、「生への不安」ってものその表裏にはあります。 その意味では、兄弟間の死後についての意見交換やテレビよりも、兄の友人たちの一見すると無関心な態度ながら、テレビゲームをしつつ交わす会話の方がずっと核心を突いているというのはちとイタイ。 さて、村上は『呪霊2』を観ても分かるようにホラーの定石をハズしまくる。その点では『邪願霊』以降確立されてきた幽霊像をハリウッド経由で先祖返りさせた清水崇に似ているのだけど、村上のそれはもっと根本からホラーそのものを揺さぶろうとする。 本編の第3話などはその極北。 例えば、ホラーはどこまでも荒唐無稽にできるわけで、「リアリティ」なんていらないわけです。ただ、それだと怖くない云々の以前に面白くない。事故ったカップルが墓地で延々と裸踊りを見せられる『死霊の盆踊り』とか、面白くないでしょ?まぁ、一応、ソフトポルノなんで、狂乱したヌーディスト村の記録映像と思えば観られなくないこともないです(もう一度観ようとは思いませんが)。それに、ニーチェの言うような絶望を克服した超人になれるかもしれません(ウソです)。 となると、現実味が必要になる。それも職業、場所、小道具などが現実との接点が映画内の現実とうまくリンクしていれば、より「リアリティ」を持つことができると。 それならばと、村上は現実味ある死を導入してみる。 「死んだら何もなくなる」「どうする?」と。すると、ビックリするくらい何も起こらない(注3)。心霊写真、幽霊ホテルといった道具立てだけが空しく際立つことに。 そりゃ当然で、物語の「リアリティ」が瓦解してしまいますから。 つまり、ニーチェ的な設問(注4)によって、ホラーの「約束事」が無化されるわけです。 もっと分かりやすく言うと、形而上なモノを否定しては、ホラーは成立しないと。逆に言うと、不条理で不合理な恐怖があってこそ、ホラーは物語として成立するということです。 これは「物語内のリアリティ」=「約束事」は不可侵ということを示しています。フィクションからフィクショナブルな部分を除去しては何も残りませんからね。 現実と「物語のリアリティ」は互いに切り結ぶものではなく、現実からの楔によって物語に「重み」が増すことが重要なのです。 さて、これまで見てきたように、一貫して村上はホラーの根幹に触れ、捨象することで、これらを探り出そうと試みています。 これはホラーという物語を描いているわけではないので、ホラーとして観ると面白くないです。ここ最近、心霊フェイクドキュメンタリーばかり観てきた身としては、非常に興味深いんですけどね。 「フェイクドキュメンタリー」「ドキュメンタリー」「ドラマ」といったものを含めて考えると面白いんですが、今日はこの辺りで。 注1: 『呪霊』なんかは『スナッフ』と同じく、未完成フィルムの再生産のようなもので、比較しても仕方がないんですけどね。 とは言うものの、ここ最近、和製ホラーの底をウロウロとしていたおかげで気付いたんですが、いや、こんなものですよ。きちんと、心霊フェイクドキュメンタリーの原理に則って作られてますしね。 それでも、クズ映像の再生産方法としてのひとつの提案という感想は変わんないですけど。 注2: 日本のホラーコメディというと、飯田譲治の劇場デビュー作『バトル・ヒーター』(コタツが襲ってきます)とか、3作目以降、突如としてコメディ路線にはしった『ギニーピック』シリーズとかあるけれど、やっぱりこれらとは違う。 『死霊のはらわた』や『ブレインデッド』(は狙っているけれど)の可笑しさを、スプラッターではなく、日本的な恐怖表現の中で意図的に表現したと言えばいいだろうか。特に前半2本は。 清水崇のパロディと見ることもできます。 それと、前回うまく例えられなかった青い顔(本当に青い!)の幽霊の目は、『ウルトラマン』の怪獣の目ですな。暗闇に目だけがギラギラしてる感じは。ライトでペカッと。 ほら、高原竜ヒドラとかペガッサ星人とかヒッポリット星人とか、怪獣の半分くらいかな。ウルトラマンからしてそうなんですけどね。 注3: 海中から飛び出すテレビは不思議でもなんでもなくて、村上の他の作品を観れば分かるように、人の思考や感情などが可視化して現れたにすぎないんです。つまり、隠喩みたいなものですな。 結構なんでもかんでも映像化して、可笑しみを出そうとしてるんで、ここに違和感がある人も多いんじゃないかなとは思います。 注4: ニヒリズムを越えていけ。 絶対的な信ずべき対象はなく、故に自らの生に何の目的も見い出すことはできないと。すると、廃頽的な態度になりがちなんですけど、これをニーチェは強く拒絶します。こうした生に対する厳格な態度は『ツァラトゥストラかく語りき』を参照。が、前にも言った様に、若いうちは読まないほうがいいので、ソクラテスから始めましょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年09月19日 01時29分11秒
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