島崎藤村 『破戒』
立冬も過ぎ、暦の上では冬を迎えました。私は先週の水曜日くらいから風邪気味で、金曜日にはちょっぴり熱っぽくてつらかったのですがなんとか先週の勤務を乗り切ることができました。早朝から、バタバタと家族の朝食とお弁当(娘+自分)を作り身支度を整えて、最寄駅まで自転車を走らせる。満員電車の中で押し潰されるような毎日だけど・・・実はそんな通勤時間が、私にとっては魅力的な読書タイムです。 島崎藤村 『破戒』 新潮社文庫 2005年7月30日126刷改版 629円(税込み660円)ニュースでは悲しくらい毎日のように子どもたちの深刻ないじめによる自殺の問題が報じられています。皆さんもご存知の島崎藤村が1906年、7年の歳月をかけて完成させた最初の長編『破戒』では明治後期の、ある意味“人間の究極のいじめ”が描かれています。主人公の教員・瀬川丑松(うしまつ)を通して歴史的な差別問題を 読者がわが身に置き換えて考えるとあまりに残酷な不条理に、憤りさえも覚えてしまう。瀬川丑松の内面世界が克明に描かれ彼を通して“人間の心の脆さ”のリアリティーにぐいぐいと引き込まれていきます。そして、教員としての丑松には・・・ある意味、裏切られることになります。実は、この作品が名著であると同時に、批判も多い所以(ゆえん)はこの部分です。“社会小説”なのか、“自己告白”なのか・・・ここに『破戒』評価の、最初の分岐点が存在します。主人公の中に、社会的なヒーローを期待してしまうと歯がゆさというか、落胆も生まれてしまう。でも私たちは、この小説を通して、あまりにも多くのことを実感し、考えさせられることになります。昨年7月に発行された、この126刷改版の新潮文庫を今回、夫と同時進行で読了しました。同じ教員である夫にしてみれば、「なぜ、教職についていた島崎藤村が、教員である丑松が子どもたちの前であのような言葉で告白をするように描いたのか?ましてや“仙太”のいる前で・・・」と理解に苦しむところだったようですし、私自身も、その部分では同じような気持ちだったのだけど・・・丑松は紛れもなく、残酷な社会のいじめによる被害者なのですよね。教師として戦うことができないほど、ボロボロに傷ついていたのです。理不尽ないじめがどんなにつらいものなのか、苦しいほどに伝わってきます。『破戒』は、私たち夫婦でさえも、“社会人としての批判“と、“一人の脆弱な人間としての共感“を感じた得た、問題作なのだと思いました。そういった意味では「近代日本が生んだ最もすぐれた文学作品の1つ」と言われることにも、うなづけます。この作品を読んだ皆さんは、どのような感想をお持ちですか?また、まだ読んだことがないという方は、ぜひこの時期、一度お読みになってください。(ぜひ、解説文も含めて読んでくださいね。)できれば、皆さんの感想をお寄せいただければ幸いです。そして最後に、この場所に書き添えたいことがあります。もしも今、いじめの苦しさから自殺を考えている人がいたら・・・決して、自ら命を絶つようなことだけはしないでね!!自分を苦しめるような場所からは、逃げてもいいんだよ。傷ついて、疲れてしまったなら、もう戦うことをやめてもいい。でも、あなたがこの世に生を受けたこと、そこには立派な理由がある。人はもともと弱いものだから、一人では乗り越えられないこともある。助けを求めることは、決して恥ずかしいことではないんです。人の心の傷みや苦しみがわからないことの方が、人間としてはずかしいことなのだから・・・