End of The World.
こうありたい、と思う自分を、少しだけ少しだけ取り戻しつつある。本来、ほんとうにわたしは1人でいるのが好きで、できるだけ他人といたくない。誰かといると、疲れる。たとえ、それが親でも(もう既に亡くなったが)、身内とかでも。知り合いとかなんとかだともう1時間いると無理だ。へとへとになる。こどもといると疲れる、と思って、でも気づいた。こどもたちだけは、24時間一緒でも、乗り切れる。わたしは、自分としか話したくない。自分の思考に疲れるのに、他人とまで話したくない。他人の思考は、文字として、知りたい。言葉を目で追いたい。5年間の入院で、とても好きだったのは、保護観察室だ。窓とベッド、そしてトイレしかなく、誰も来ない。カメラで見張られてはいるものの、基本的に1日誰とも話さずにいられた。白い白い部屋。管理された擬似ひとり空間。長く鬱を患っていると、一般的な健康なひとが相手だと、疲れるのだ、と気づいた。気が合って、長く一緒にいられるのは、精神的な病気を持つひとたちだけだった、と今更気づいて、残念になる。もう健康なひとたちが相手なのは無理なのだ、と。一応、社会人として、世間では振る舞うものの、やはりわたしにも違和感がある。社会人にとっては尚更わたしという人間には違和感があるだろう。今の自分にブレーキをかけたい自分が、いる。好意を持ったひとたちに、そんなに心を開きすぎてはだめだ、と。自分が云々よりも、多分相手側のひとたちは困惑するだろう。わたしは、好きな相手だから、よろこんでほしい、楽しんで欲しい、だけ。ただ、振り返るときっと鬱陶しく煩わしいだろうな、と思う。わたしならうんざりする。すごく悪いことをしていた。そして、考えるのも嫌だけど、甘えすぎているのだ。「いいひと」たちの好意に。受け入れてくれている幅の広さに。ひとり親になって、ちょっと頑張りすぎていた。話しかけにくい、とか、冷たそう、と言われ続けてきたから、もっと自ら話しかけないと・・と頑張っていた。無意識に。学校の先生や知人、その他知り合いに、すごく話しかけて、何でも話をして。でもそれは、すごく私らしくない態度だから、その程度が自分でわかっていなかった。猛省しなければならない。このままではいられない。そして、このままだと、わたし自身が保たない。自分でじぶんを守るしかないのだから。こどもたちには、わたしがいる。絶対守る。わたしには、特に誰かいるわけではない。すぐそばでわたしをいちばんに考えてくれるひとはいない。わたしが崩れてはだめなのだ。無邪気で素直でありすぎる、今の自分。わかってる、あの夏の自分と同じだ。でも、今は普通の、世間の生活の中だ。先生も看護師もいない。何より、世間から遮断してくれる壁もない。底なしの自由を自分で制御しなければならない。そして、息子たちの命の責任を持ち、息子たちの言動の責任を取らなければいけない。その上で、息子たちの毎日を、よりたのしくしてあげたいのだ。自分の限界を受け入れよう。状況を受け入れ、滞ることなく流れ続けなければならないのだ。ピリオドを打つわけにはいかないのだから。2年前の入院で教わったこと、叩き込まれたことを、しようと思ったけど無理だった。わたしの課題は他人に助けを求めることで、そのための授業を5時間も受けたけど。そんなことしたって、助けてもらえなければ、徒労感が増すだけだ。そもそも、助けを求めるエネルギーはない。少女の頃に、心に刻んだことばがある。「ずっと平気な顔で生きようと決めたの」ジョン・アップダイクの結婚しよう、という小説。ずっと平気な顔で、生きてきた。これからも、平気な顔していよう。End of The world