カテゴリ:日々のカケラ
質問 4 どうして、にんげんは死ぬの? さえちゃんは、死ぬのいやだよ。 (こやまさえ 6歳) (追伸:これは、娘が実際に母親である私に向かってした質問です。 目をうるませながらの質問でした。正直、答えに困りました~) 谷川さんの答え ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、 「お母さんだって死ぬのいやだよー」 と言いながら さえちゃんをぎゅーっと抱きしめて 一緒に泣きます。 そのあとで一緒にお茶します。 あのね、お母さん、 言葉で問われた質問に、 いつも言葉で答える必要はないの。 こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、 ココロもカラダも使って答えなくちゃね。 この質問と答えは、『谷川俊太郎質問箱』(発行・東京糸井重里事務所)にあるお話のひとつ。はじめの数ページをそっと開き、まるでのぞき見るように読んだ。誰かの質問をぼくが聞いてもいいものだろうかと、なぜかそんな気がした。でも読んでいるうちに、詩人の深い思いやりが伝わってきた。詩人って、ほんとうに深い心を持っている。詩人の足下には到底及ばないが、ぼくも少しでも深くやさしく生きられたらどんなにいいだろう。 この本は、遠くの友が贈ってくれた。昨日届いたばかりだ。文字量は少ないが、なんだかもったいなくて一気に読めない。友のココロがこの本の中にぎっしりと詰まっているような気がする。 「どうしてそんなに真剣に生きるの? どうしてそんなに考えてばかりなの?」というような言葉を何度か言われたことがある。考え過ぎよ、疲れない?というニュアンスがいつも伝わってくる。人が感じるほどぼくは真剣でもないし、考えすぎてもいない。むしろ無知無学なノンポリで、ほとんどのほほんと構えていると、自分では思っている。けれどもしも生きるという大きなテーマについてなにも考えなかったら、なんのために生きているのか、とは確かに思う。楽しく遊んで、美味しいものを食べて、行きたいところを旅して、もしもそれで人生が十分だというなら、その人はそうできなくなった時どうやって生きてゆくんだろう。そうできない人の方が、世界では圧倒的に多数派なんだ。だから、とは言わないが、環境を生きるのではなく、生きている環境で考えることの方がよほど大切だと思っている。 たとえば、花のように生きたい、と言う人がいる。ぼくも、花のようにさりげなく咲いて囚われなく散っていきたいと、時々思ったりする。でも、人は花じゃない。ほんとうに花になって生きることが何よりも素晴らしいことなら、人に生まれるはずがない。生き方を考えるという他のどんな生き物にもできないことを、人はできるんだ。 ぼくの生き方、どうしよう。いつも考えてばかりでは、実際に生きたことにはなって行かない。生きるとは、アタマでも考えて、その考えを抱えて呼吸することだろう。呼吸して動くことだろう。動けないカラダでも呼吸し、ココロからいろんな波を起こしているに違いない。 本を贈ってくれた友をまた思う。やさしい人だ。あったかな人だ。何度も会ってはいないけれど、ぼくにはそう感じられる。そう言えば、このところいろんな品が立て続けに届いている。先日の秋鮭。柔らかでふっくらとして最高にうまかった。さすがに北の海を渡ってきただけのことはある。贈ってくれた友のココロを、さばいてくれた弟ばかりか、伊丹の娘にもお裾分けできた。北海道の小清水にある健土塾の友からは、野菜がどっさりと届いた。10年以上も前に撮影でお邪魔したのがご縁で、ずっとそんなふれあいが続いている。水っぽいジャガイモが最近は多いのに、純度が100パーセントという感じがする。牛のカラダを数回循環させた尿を液肥にして、それだけを使った農業だ。ココロの入り方が違う。品物って、深くてやさしい思いやりでラッピングされている。 ああ、そう言えば、所沢での個展でも沢山の花や品をいただいている。いただきながら、そのままになっている。ぼくはココロをいただきながら、まだココロを返していないじゃないか。どんな生き方をしたいのか。これで答えがはっきりしたじゃないか。いただいたココロをぎゅーっと抱きしめて、ゆっくりと味わい、味わったらまたゆっくりとココロをお返しする。花に虫が飛び交い風が花粉を運ぶ自然界のように、さり気なく深くやさしく、そんな生き方をココロで感じて、アタマでも考えている。 どうして、にんげんは死ぬの? きっと、死ぬのがもったいないくらいに、にんげんって やさしいからだよ おじさんも、死にたくないくらいに、やさしくなりたい お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Oct 20, 2007 11:02:07 AM
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