カテゴリ:日々のカケラ
今日は早朝から全市一斉美化清掃の日だそうで、おふくろが案内のチラシを持ってきたのは、これは息子のぼくに出ろ、ということか。いつも朝は早いから、まぁそれもいいかと、町中を歩き回ってゴミ拾いした。朝の空気は気持ちはいいが、どこが全市をあげての清掃だ、と首を傾げた。誰もいないじゃないか。そうだよな、週に一度の日曜日だ。連日忙しい仕事で疲れて、休日の早朝にゴミ拾いなんかできるか。出られるのは暇なカメラマンぐらいなもんだ、と納得した。 美化運動なんかしなくても金沢はきれいなもんだ。そんなには落ちていなかった。それでもたまに見かける空き缶やペットボトルのほか、吸い殻が一番多かった。喫煙者のみなさん、タバコの葉はそのうち消えても、フィルターはずっと残るのだ。まとめて捨ててあったのは車の灰皿からか。自分の車がきれいになれば気持ちはいいだろうな。ぼくのハイエースは、まるでゴミ箱が走っているようなもんだから。なんて、お利口さんぶったことを書きたいのじゃなかった。どうも行けない。こんなブログを書いていると、自分がいい子になってしまう。愛煙家の頃はぼくだって時に吸い殻をポイ捨てしたことがあるのだった。 ゴミ拾いしながら、今朝目覚めてから感じていることを、ずっと考えていた。「生きているって、どういうことだ」。哲学者でも掃除しながらでは考えそうにないことを、ましてや考えてわかるはずもないことを、グダグダと考えている。まったくおかしなやつだ。こんな美化運動したかっらて、それがどうだというんだ。生きていることと、なんの関係があるんだ。ますます土つぼにはまってゆく。 仕事でなく田口ランディさんにお会いするかも知れないというので、著書を読まないではエチケット違反だとばかり、読みはじめた。まずは興味のありそうなところから、タイトルに惹かれて、『寄る辺なき時代の希望』(春秋社)。副題に「人は死ぬのになぜ生きるのか」とあった。ミクシィの日記も拝見していて、作家ってすごいなぁと、日々を見つめる豊富な知識と見識に、そしてなにより自分に正直な態度に、ただ感動する毎日だ。考える、ということは、こういう方の思考を言うのだろうと、風の吹くままカメラマンなどどこかへ飛んで行って、消え去ってしまえばいいのにと思う。 その中の第1章「老いという希望」の最後の部分で、ランディさんは書いている。 「人間としての重荷を降ろしたとき、人はようやく生命の尊厳まで立ち還る。生命はすごいんだ。人間じゃなくたって、すごいんだ。動物も植物も、みんなすごいんだ。すべての生命は生命としての光をもっている」。 グループホームでの体験やスウェーデン視察、藤原新也さんとの対談など、ここまでの経緯を飛ばしていきなり結論めいた箇所だけを読んでも、その意味するところの半分も届かないかもしれないが、この降ろす重荷、というものをぼくは考えた。グダグダと自分なりに、ランディさんの足下にも及ばない思考で考えて、それがどんどん重荷にまでなればいいと思った。重荷になるほど考えてこそ、降ろすことができるんだ。ぼくはまだまだグダグダが足りない。なぜかそう思った。 この章の最後をランディさんは谷川俊太郎の言葉で結んだ。 生きるだけさ、死ぬまでは。 それはわかった。そして、それで、だからどうだというんだ。生きるだけさ、と言うために、生きているのか、人は、すべての光の生命は。ゴミなんか拾うのが少しバカバカしくなってきた。捨てるやつにこのゴミ袋を投げつけるとどんな顔するかな。足下には、コンペイ糖のようなミゾソバが群生していた。かわいいなぁ、こいつ。「ごくろうさん」と、おっさんが声をかけて通り過ぎて行った。そうか、ぼくももうおっさんだった。花を見ていると、忘れてしまう。こんなふうにグダグダと、じじいになっても考えているだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Oct 21, 2007 01:35:18 PM
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