カテゴリ:ひかりっ子
人には身体があって、心もあって感情があり、それにもうひとつ、見えない魂もあるという。『ミュータント・メッセージ』のあとがきにたしか、現代人に向けたアボリジニの長の言葉があった。「あなた方はなぜ魂の話をしないのか。あなた方には魂はないのか」。それを読んでぼくは相当なショックを受けた。魂って、ほんとうにあって、それを感じて日常として生きている人たちがいたのか。 ぼくは、ぼくも魂であると、だから信じている、つもりだ。けれども残念ながら、その存在を確かなものとして感じたことがない、ようだ。どうして魂ってやつをもっと身近に感じることができないんだろうと、ずっと思ってきた。 『神へ帰る』の中に面白い言葉をみつけた。 「感情は魂の言語なのだ」。 言葉は心の創造の産物で、行動は身体の言語だとも言っている。そして、「感情は最初の思考であり、純粋な思考だ。感情は言葉にならない思考だよ。何かについて『語る』ことなしに、たくさんのことを伝えている」。 ぼくがほんとうに撮るとき、つまり撮ることに集中しているとき、そこには言葉はひとつもなかった。思考さえないのかもしれない。なにかを感じていることは間違いないけれど、それがぼくの意識には上っていないのだから、言葉で表すことなどとてもできない。そこにもしかすると、魂ってやつが関係しているんじゃないだろうかと、少しうれしくなっている。 大して実感もないことをぐだぐだと考えているぼくに、友は言った。 「私達の本質が魂だから、鏡のようなものがない限りは自分が見えにくいのと同じようなもの。目を内に向けないで、外にばかり向けて、自分を外に探してるんだな。頭のさきっちょにぶらさげた人参を追い求める馬のように外に向かってるんだな」。 これは参った。まさしく今のぼくだ。これまでずっとそうしてきた、ぼくの姿が見えるようだ。人が魂だとしたら、その魂から魂を感じることは実に難しいかもしれない。 「魂は神の性質を持ち、個性をも持った存在。個性だけに注目して神の部分であることを忘れてしまったんだね。もし神と一体に繋がっていることを思い出し実感することができれば、個性を持ちながら神の性質を持つ素晴らしい生き方ができるね」。 そうだな。ぼくは、ぼくという個性をとても気に入っている。一時は、この人生なら永遠につづけていたいと思ったほどだ。でも、確かに抜け落ちていた。神の性質がぼくの中にもあることなど、畏れ多くてとても言えないだろう。だからか、神はいつも見守っている、という言葉に隠れて、これまで好き勝手にやってきた。ああ、でももういいや。人は誰もがみんな神の性質を持っているんだ。ぼくだけじゃない。みんなだ。だったらこれからは少し違った生き方をしようかな。 ますます感情を大切に。そこには、ぼくの真実があるんだ。ぼくの感情は、ぼくの魂の言葉なんだから。そうだろ、ぼくの魂。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Nov 22, 2007 01:21:33 PM
|
|