カテゴリ:ひかりっ子
11月27日は、ユコタンの一周忌だった。あれからぼくはもう1年を生きているのか。言葉にならない感情に浸りながら長い日々だと思っていたのに、もう1年か。ユコタンは今ごろどうしているだろう。死は、創造の新しい階段を上るようなものだと、どうやら前向きにとらえられるようになってはいるけれど、かなうものなら死後の消息を知りたいものだと忘れたことがない。 命日。この世の命が終わった日。そしてきっと、あの世の命が始まった日。死は、人という生命が続けている永久の営みの、一世一代という大イベントなのかもしれない。生きている間に気づけなかった大切ななにかを、死んでゆく人も、遺される人も、その死を通して思い出すことができる。ユコタンに出会い、ユコタンと別れなければ、ぼくはそんなことさえ知らずに、ただのほほんと生き続けただけかもしれない。 ユコタンは、ぼくとふたりで開いた「ひかりっ子くらぶ」のある日、一期一会ということばを使った。何度も開いたふたりの会はとても小さなものだったけれど、集った仲間と静かに深くふれあえる素敵なひとときだった。まだまだ続くと思っていたのに、もう二度と開けない。どんな出会いも一生の間にあるたった一度のものだと、あれからぼくの覚悟はできたんだろうか。その覚悟ができないなら、ユコタンとの別れを無駄にしてしまうことになる。そればかりは、ぜったいにいやだ。いま出会っていることに、出会っているこの瞬間に、精一杯の心を開いて、誠意を尽くしていなかったなら、なんのために別れたというのか。命日が、遺されたぼくにまた大切なことを教えてくれた。 ユコタンと出会ったのは50を過ぎてからだった。今度会う時は、子どものころから会おうと約束してある。そしてその前に、今がある。ヨシエどんとは高校で出会った同級生だ。どこかで、今度は若いころに会おうと約束していたかもしれない。人と人の出会いはきっと何度も同じメンバーで繰り返す、果てしない創造のマスゲームのようだとイメージしてみた。少し歩き出す勇気がわいてくる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Nov 28, 2007 01:19:32 PM
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