誰から告知されたいか
昨日の続きで「生命の贈り物―骨髄移植の現場から」から告知について。告知の内容よりもそれを誰に言われるかのほうが、受ける側としてはより大きな意味を持つのだという文章が心に残りました紹介したい言葉告知の衝撃その二回目の治療も終わり、骨髄細胞が増え出してきた頃に、大切な話があるからと父親とともに呼ばれました。そして、その場で告知を受けました。これは、その前の再発告知以上にショツクでした。入退院を繰り返してきたなかで、うすうすは「もしかしたらそうでぱないか」という思いも抱いてはいました。でもまた同時に、「いや、そうではないかもしれないことの淡い期待も抱いていました。その期待は医師の手で見事に打ち砕かれました。また、一番信頼していた両親すら、子供にとってよかれと思う親心からにしても、自分を今まで欺いていたのかと思うと、気持ちのやり揚がありませんでした。ともかくも、このようにして二年近く人退院を繰り返しながら治療を受けてきて、そしてようやく告知を受けた時に、ある一つのことを強く感じました。それは、同じように告知を受けるにしても、何を言われるかよりも、誰にそれを言われるかのほうが、受ける側としてはより大きな意味を持つ、ということでした。医局ではお偉いのかもしれませんが、日頃疎遠で馴染みのない医師や、痛みや苦しみの体験の少ないであろう研修医などからは、患者は告知を望みません。告知の場にいてほしくもありません。告知を受け、自室に一人でいた時、心配して様子を見に来てくだされた研修医の先生の「察するよ」という言葉すら、素直に受け取ることはできませんでした。良心的な人であればあるほど、そのような状況の際、何か相手に言ってあげようと努力します。しかし、それを聞く側としては、言葉が増えれば増えるほど、その分だけ何だか事実から乖離していくようで、相手が嘘を言っているようにしか聞こえなくなるものです。告知を受けた直後だけは、正直言って一人でいたかった。ただ放っておいてもらいたかった。誰からも、両親からさえも離れていたかった。その場を取り繕うような同情の言葉や哀れみなどは、間違っても受けたくなかった。 抜粋了3.本を読んで得たヒント、展開的アイデア、やるべきこと時と場合によって、言葉が増えれば増えるほど、その分だけ事実から乖離していくようで、相手が嘘を言っているようにしか聞こえなくなる事がある━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━このブログは、土井英司氏のビジネスブックマラソンで紹介された本を中心に「気になった言葉」を紹介し、 ・本を読んで得たヒント、展開的アイデア、やるべきことを徒然に書す備忘録的ブログです訪れていただいたすべての方とその周りの人たちに、今日もすべての善き事が、雪崩の如く起きますように━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━