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∧,,∧ (;`・ω・) 。・゚・⌒) チャーハン作るよ!! / o━ヽニニフ)) しー-J Λ,,Λ (::::: )・゚。 今日も独りで食べるよ… (::::::::.. つニフ  ̄ ̄と とノ ̄ ̄ Λ,,Λ ゴシゴシ (::::: ∩゙。 (::::::::. ノニフ  ̄ ̄と とノ ̄ ̄ ̄ Λ,,Λ (:::´・ω)。 な,泣いてないよ! (::::::::..つニフ  ̄ ̄と とノ
2005年04月25日
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なんかいつも揉めてますね(´・ω・`) 揉めるのはもういいやんって思うけどそれじゃドラマになりませんね。ドラマの中で島のことを「鳩海島」って言ってるけど鳩間島のことをなんで「鳩海島」って言ってるんだろう?島のひとに止められたのかな。里親の勇造さんが石垣にアルバイトに行ってたのですが瑠璃ちゃん連れて鳩間に行ったときはたしか石垣→西表(大原港)→西表(上原港)→鳩間で行ったのでそのルートしかないかと思い勇造さんも大変だなぁと思っていたら鳩間から石垣への直行便があるのね。しかし乗船料だけでも往復3,000円くらいするから日当いくら貰っているんだろう。と、いらぬ詮索。創作(フィクション)の部分だろうけど(原作読んでない)石垣島が出てきました。離島桟橋も映っていましたね。ハンバーガー屋さんのA&W(エンダー)も登場しました。なんと僕が初めて行った石垣で遅めの昼食を食べるのに利用したお店←ぷち自慢(^_^)v夕方近くにもなって宿の予約も決まっていなかったのでハンバーガー食べながら途方にくれていた。そこへ地元のDQN高校生が((((;゚д゚)))ガクガクブルブル 今年の夏は鳩間島に観光客が大挙して押し寄せるんだろうか?はたしてそのなかに僕もいるのだろうか?ちゅらさんブームの時に小浜島に行ったことあるしな(*^_^*)原作子乞い―沖縄孤島の歳月漫画光の島これって日テレ?瑠璃の島公式ホームページ
2005年04月23日
元ちとせの『この街』から..."声が聞きたい こんな夜だから 遠い距離を越えて"石垣島の離島桟橋でこの曲を聞いていた。八重山諸島へ行く船の出入りが激しい小さな港。朝から行く人や帰ってきた人でにぎやかである。"忙しく行き交う人の波間に 混ざりあう糸口もみつけられずに""落としたものが あるような気がして 振り返る "夕方の最終便が近づくにつれ だんだん静かになってくる。"どこに向かうのだろう なにを探し出せるのだろう 足を止めることを知らない 時の中”最後の船を見送りながら 涙があふれてくる。僕は人生の迷路に迷ってしまっている。これからどの船に乗って どこへ向かえばいいのだろう?"誇れるものに 出会えると信じて この場所で”この街 / 元ちとせノマド・ソウル / 元ちとせ
2005年04月22日
夏川りみの『涙そうそう』からの歌詞の一説。この曲がブレイクする前に、石垣島を旅行していてコンビニや商店街、居酒屋でいつもこの曲が流れていた。まだ本土では聞いたことがなかった。石垣島が夏川りみの地元なのも後から知った…コンビニでレジを済ませたあと、この曲が流れると雑誌を読むふりをしながら最後まで聞いていた。ひとり旅に疲れた 僕の心を癒してくれた 想い出の曲。涙 そうそう
2005年04月21日
沖縄のことわざで『いちゃればちょーでー』というのがあります。これは『見ず知らずの人でも一旦出会えば兄弟のようなもの』という意味だそうです。沖縄で道に迷って、お婆さんに道を尋ねた。道を教えてもらうだけだったのに家によって冷たいお茶を飲むことになってしまった。遠慮してたときにこの言葉を教えてもらった。『いちゃればちょーでー』よ。あったかい沖縄の人の人柄が伝わってくるような言葉です。楽天のプログで出会ったひととも『いちゃればちょーでー』
2005年04月20日
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どこまで行くのかといつになれば終えるのかと旅人は答えた終わりなどはないさ 終わらせることはできるけどポルノグラフティの「アゲハ蝶」からの歌詞の一説。 ポルノグラフィティ/PORNO GRAFFITTI BEST BLUE'S
2005年04月19日
野茂とホモの見分け方完投して喜ぶのが野茂、浣腸して喜ぶのがホモ 打たれるのを嫌がるのが野茂、打たれるのを喜ぶのがホモ 野茂はホモを狙わないがホモは野茂を狙う事がある 好プレーするのが野茂、チンプレーするのがホモ 家族で楽しくみるのが野茂のプレー楽しくみれないのがホモのプレーお尻を見せて球を投げるのが野茂、お尻を見せて球を揺らすのがホモ アメリカで観戦するのが野茂。アメリカで感染するのがホモ 野茂はあまり喋らないが、ホモはよくしゃぶる タマを投げてチームを守るのが野茂。タマを触って相手を攻めるのがホモ
2005年04月18日
僕は沖縄が大好き!!沖縄が好きというより『琉球弧』が好き!!そして離島が大好き。初めて沖縄に行ったのは15年ほど前。ガイドから夜間の外出は控えるように言われた。なんでも観光客が飲酒運転の米軍の車にはねられたり飲み屋で因縁をつけられ怪我を負わされる事件が多発したらしい。米軍の間では車で人を撥ねるゲームが流行っていたそうだ。沖縄の明るい海と暗い現実を聞かされてしばらくは沖縄に行くことがなかった。まだ戦後の状態が続いている沖縄。観光で行くのは不謹慎なことだと、自分のなかで勝手に解釈してしまっていた。そして基地のある本島を避けて石垣島に行く機会があり、また沖縄の魅力に取り憑かれ去年、思い切って本島に行ってみた。米兵ばっかりだった国際通りも日本人が闊歩していて昔のイメージが払拭された。今年も七月に行く予定。さて『瑠璃の島』映像がキレイでした。原作は古いと思うのですが今風にうまくアレンジしてますね。これ見てまた沖縄に行くひとが増えるんだろうと思うと鬱になったりして(-_-;)チケット取れるかな(´・ω・`)
2005年04月16日
戦前の台湾で農業近代化に向けたダム建設と水利事業に生涯を尽くした日本人技師、 八田與一(はった・よいち)氏と外代樹(とよき)夫人を主人公にしたテレビドラマの撮影が、五月から始まる。 制作するのは台湾の四大地上波テレビ局のひとつ「中華電視」。 同局の江霞社長は「台湾の歴史を考える上で八田與一夫妻の貢献は欠かせない」と話す。 戦前の日本人が台湾でテレビドラマ化されるのは初めて。 外代樹夫人役で歌手の松田聖子さんの出演も内定した。 不毛地帯だった台湾南部の嘉南平野およそ十五万ヘクタールを、八田氏がリーダーとなって烏山頭(うざんとう)ダムと総延長一万六千キロの農業用水路を着工から十年をかけて建設し、 一面の穀倉地帯に変えた戦前の台湾で最大級の土木プロジェクト「嘉南大●(かなんたいしゅう)」。一九三〇(昭和五)年の完成から今年で七十五周年になる。 前総統の李登輝氏が二〇〇二(平成十四)年十一月、慶応義塾大の学園祭に招かれながら訪日ビザ(査証)が得られず断念した「幻の講演」の原稿で 「誠をもって率先垂範(そっせんすいはん)、実践躬行(じっせんきゅうこう)した日本人の精神の象徴」として紹介し、広く知られるようになった。 さきに家族と訪日した李氏は、昨年十二月三十日に八田氏の生家を金沢市に訪ね「八田氏は台湾の恩人だ」と話していた。 中華電視の江社長は八田夫妻を主人公にドラマ化する狙いを 「国民党政権時代に歴史から消されていた日本統治時代にも、現在の台湾経済の礎になっている重要な人物がいたことを、台湾の視聴者にもっと知らせたい」 と話し、日台の歴史的な結びつきを前向きにとらえている。 ドラマのタイトルは「水色嘉南」。八田氏の命日の五月八日に烏山頭ダムで撮影を始める。 放送は来年五月八日から。月曜日から金曜日まで毎日一時間番組として計二十回放映する。 せりふは日本語と台湾語を使い、中国語(北京語)の字幕を入れることにしている。 台湾の財界人が八田氏の胸像を寄贈したことで知られる「金沢市立ふるさと偉人館」の松田章一館長は 「金沢出身の八田氏がかくも台湾で評価を受け、戦後六十年を経てテレビドラマにまでなることに感動した。日本でもぜひ放映してもらいたい」 と話している。 ◇ 八田與一 1886(明治19)年石川県生まれ。東京帝大で土木工学を学び1910(同43)年に台湾総督府の土木部技手として24歳で赴任。 30(昭和5)年、当時アジア最大の烏山頭ダムと総延長1万6000キロの農業用水路を完成させた。42年にフィリピンに向かう船が撃沈され、56歳で死去。 いまも5月8日の命日には烏山頭ダムわきの八田氏の銅像前で、八田氏を慕う地元の人々が慰霊祭を続けている。 外代樹夫人は敗戦の年、台湾を離れることを拒んでダムに身を投げ、46歳で夫の後を追った。 (一部略) 引用元:産経新聞 http://www.sankei.co.jp/news/morning/13na1001.htm 台湾(o^ー')b good job中国がインドと国境問題を解決したり、日本との尖閣諸島問題もありこのところ中国が領土解決に向けて急いでいる感がある。 そのなかで武力による中国の台湾侵攻が懸念される。「敵の敵は友達」の理論で、独立派の台湾としては日米には味方になってほしいところ。政治の思惑が見え隠れするが、日本人が外国でいいことをしたと聞くのは日本人として誇りに思える。それにいいことはいいことと言える台湾に敬意を払いたい。台湾新幹線ができたら、台湾に行こうかな!!これからは韓流ブームから台流ブームになりますように(-人-)本田宗一郎の名言 台湾と韓国に技術協力をした。 台湾人は言った。 「日本と同じものが作れるようになった。ぜひ見に来てください。」 韓国人は言った。 「日本と同じものが作れるようになった。もう来なくていい。」 これを聞いてもう二度と韓国には技術協力をしないよう部下に命じた。
2005年04月14日
(´・ω・`) 韓国や中国にいじめられてつらいなー(´・ω・`) どこか仲良くしてくれる国はないかなー( ∩∩)(´・ω・`) アメリカやイギリスも裏では反日だしなー ( つ旦O _)_) (・o・ ) < 木星に移住しるー!!o┬o )。(*)ゝ(*)
2005年04月13日
屋久島の安房港に着いた。乗客たちはそれぞれ知り合いや家族の出迎え、ツアーのバスやレンタカー会社の車に乗って足早に安房港を去っていく。ひとり旅の僕には、誰も迎えが来ない。少しばかりの自由と少しばかりの寂しさを覚えた。遅い昼食をとるために港から見えているスーパーらしききれいな建物に行ってみる。中には小さなレストランがあったのでそこで食事をした。水と食料を調達し、近くのバス停まで歩いていく。バスの時刻表を見ると、なんとバスが来るのは一時間半後だ。重い荷物もあるので待つことに決めた。しかし突然の大雨、座る場所も屋根もないバス停で傘をさしてる姿は、まるで猫バスを待っているトトロのような気分だ。さすがにタクシーでも来ればそれに乗り込むつもりだったが、車すらも通らない。やっと乗り込んだバスで予約しておいたホテルに着いた。ホテルの店主はやけに僕を気にかけてくれる。登山する予定があれば絶対に登山届けを出すようにとか、下山したらホテルまで連絡するようにと、まるで以前に僕みたいな観光客になにかがあったのかと思わせるような感じだ。2日後に縄文杉のコースに登山する予定だったが、数日来の大雨で道路が通行止めになっているらしい。翌日、天気は良好でバスに乗り、北部の終点でもある永田へ行く。永田から見る屋久島の山々はとても神々しく、まるで僕に近寄るなとでもいいたそうな、人を寄せつけない迫力がある。翌日の縄文杉登山のトレーニングがてら、バスで来た道を歩けるところまで歩いて戻ることにする。11月ながら亜熱帯の気候なので温暖に感じられた。ウミガメが産卵に来るいなか浜を過ぎるとおなかがすいてきた。スーパーで買ったおにぎりを食べ、歩き出すがまたおなかがすいてくる。結局3時間ほど歩いただけで、空腹を満たすためバスに乗り、宮之浦へ行く。安房とならび屋久島のもうひとつの港町である宮之浦。安房よりも大きな街である。バス停の近くに観光センターがあり、そこに入る。1Fは土産物屋で2Fは食堂になっていた。食堂のメニューに「飛魚定食」なるものがあり、それを注文した。初めて食べる飛魚。刺身になっているのだが小さく堅い骨があり、食感はいまいちだった。観光センターで自転車を借り、宮之浦のまちを散策していると携帯が鳴った。でようとしたが間に合わず、履歴に泊まっているホテルの電話番号が残っていた。気がついていなかったが3度目の電話だったみたいだ。何事かと思い、折り返し電話したところ、縄文杉まで行く道路の通行止めが解除されたことと、登山の準備などしておいてくださいとのこと。これを親切と受け入れればいいのだろうけど、もしかして、僕が自○するような雰囲気に見られたのかと思い、帰ったらなるべく愛想よくしようと思った。2日分の食料とレインコート(悩んだ挙句、一番安いやつ)を買い、自転車を返しに行こうとしたら、また雨。ひとつきに35日雨が降るといわれるこの島は、絶えずどこかで雨が降っているらしい。***********************************暗闇のバス停でバスを待っていた。道路があると思われる暗闇の奥から突然まぶしい光とともに荒川登山口へ行くバスが来た。このバスは一日一往復しかないので、行きのバスに乗り遅れれば一日が無駄になり、帰りのバスに乗り遅れればホテルに戻って来られなくなる。バスにはすでに数人の乗客がおり、途中で乗ってきた乗客を含めて十数名になった。登山口に着くと、まだ暗闇の世界だったがたくさんの登山客で賑わっていた。雨が降っている。待てば止みそうな雨だが、続々と登山者は山に入っていく。帰りのバスの時間もあるので、ぐずぐずとはしていられない。昨日買ったレインコートを着るが丈が膝あたりしかない。それにスニーカーにジーパン。まわりは本格的な登山者の格好をしているなか、いかにも登山を知らないといったいでたちだ。意外にも傘をさしてるひともいたので、僕も折りたたみ傘をさして暗闇のトロッコ道を進んでいった。前を行く登山者の明かりだけがたよりである。このトロッコ道がなかなかのくせもので、枕木が等間隔並んでいるわけではなくリズムよく歩いていけない。それに滑りやすく、枕木がないところは水たまりになっている。トンネルを抜け、吊り橋を渡っていくと徐々にまわりが明るくなってきた。さっきまで見えなかった川の流れは、太古を彷彿させる迫力があった。夜明けとともに雨も小止みになり、霧がたちこめ、苔が一面に生えた幻想的な森が僕の視界に広がった。樹木の香りや鳥たちの鳴き声も僕の五感を刺激する。小止みになったと思った雨だったが、常に放射状の水滴が降り注いでくる。空を見上げようとしても樹齢数千年も生きるといわれる屋久杉が見えるだけだ。外界で雨が降っていても樹木の葉などのおかげで、僕のいる場所までは直接に雨が降り注がないのだろう。ここはとてもとても深い森。一時間ほど歩いただろうか、最初の休憩所に着いた。近くに廃校になった学校がある。ひらけた場所に来ると雨が強く降っていることがわかる。雨宿りがてら朝食を食べることにした。おにぎりふたつと生クリーム入りのアンパンを食べて、まったりしていると、数人のおばさんグループのひとりが、疲れたので私をおいて先に進んでくれと訴えていた。まわりのひとたちはもう少し頑張ろうと励ましていたが、結局そのひとは残ることにしたらしい。体調もかんばしくなかったのだろう。僕にもこの選択肢を決めないといけない時が、来るのではないかと脳裏によぎった。登山の経験がないのと単独歩行のため、ペースがなかなかつかめずにいた。前のグループについていこうとするのだけれど、先に行ってくれと合図が出る。結局何組かのグループを追い越した。自分でもハイペースじゃないかと思い、休憩を取ると、さっき追い越したグループに追い抜かれていく。どうもペース配分がうまくつかめない。湿度が異様に高くなってきた。レインコートのなかはサウナ状態になっていた。自分の汗や雨で靴下や下着までもがずぶ濡れになった。どこまでも続くのだろうかと思えたトロッコ道も終わりを告げることになった。この先は山道になるらしい。少しでも濡れた靴下を乾かそうと脱いでみたら、途中から違和感があった両足の小指と薬指の間の皮がめくれていた。バンドエイドを貼り、ライターで靴下を乾かした。***********************************
2005年04月12日
ここからは山道になる。急な登りや滑りやすい岩などの上を歩くことになる。ところどころに木で作られた階段がある。階段がないところは木につけられた目印を頼りに、歩いていくことになる。まわりの風景が同じことや、勾配を歩くことで急に疲れを感じるようになってきた。息づかいがだんだん荒くなる。しばらく何も考えずにひたすら歩いた。さっきまで前にいたグループの後方のひとが見当たらない。数メートルしか離れていなかったのに、歩いても、歩いても、追いつかない。僕はその場でまわりを見渡した。木の目印も見当たらない、感も働かない、誰もいない。迷った?そう思った瞬間、言い知れぬ恐怖感に襲われた。山で迷うことは死につながる、登山初心者の僕でも知っていること。死の恐怖。やってしまった!心の声がそう叫ぶ。遠くから人の声がかすかに聞こえてきた。その声のする方向に進んでみる。しばらく歩くと泥に残された足跡を見つけた。方角は間違っていない。歩く速度を早める。人の姿が見えてきた。人間嫌いの僕が人の姿を見て安堵感を覚えるなんて、ほんの数分間の出来事だったが、疲労のせいで集中力が低下していたのだろう。自分の歩くペースが極端に落ちていたのに、前のグループを見失ったと勘違いしただけのことだった。だんだん休憩する間隔が短くなってきた。休憩して数メートル歩いただけで疲労感が襲ってくる。正直きつい。また休み、また歩く。足が重い、眩暈もする、また休む。顔色が悪いのが鏡を見なくてもわかる。こんなにつらいとは思っていなかった。限界?頭によぎる。下山するか。ここまで来て?頭の中が交錯する。休憩中に、あとから来た初老の夫婦とインストラクターらしき女性と挨拶を交わす。インストラクターらしき女性が「あとちょっと、がんばろう」と声をかけていただく。僕も地図を持っているので、あとちょっとの距離でないのはわかる。勇気づけていただいたのだ。勇気をもらって歩みを、止めるわけには行かない。それに負けられない。誰に?さっきの夫婦に?違う、自分自身に!また歩き出す。でも、あいかわらず足が重い。ただ頭の中には下山するという意識はなくなっている、目指すのは縄文杉のみ。その後も、歩いては休むの繰り返しを何度も続けたあと、縄文杉にたどり着いた。樹齢推定7200年といわれる縄文杉。あまり感動はなかった。やっと着いた、長かったという思いが強かった。縄文杉あたりで昼食を摂っている登山客が多かったので、高塚小屋へ向かう道のあたりで昼食にした。高塚小屋から縄文杉の間の道は数日前に遭難者がでていたところだ。木の根に腰をおろしコンビニ弁当を食べて、まったりしていた。何人か高塚小屋へ向かう登山者が通っていった。そのうちのひとりが挨拶を交わしたあと、僕の前で急に立ち止まった。視線を一度下に落としていた僕は、こんなところで知り合いか?と思い、視線をふたたび上げてみると、彼は僕の後方を見て驚いた顔をしている。なにかいる、と思い。振り返ってみると、すぐそばにヤクシカがこちらを見ていた。我に返った彼は、先に行った仲間を「カメラ、カメラ」と呼び戻し、ヤクシカを写真に納めようとしたが間に合わず、ヤクシカは颯爽と森の中へ消えていった。彼らとヤクシカが去り、また静寂を取り戻した。僕がコンビニ弁当を食べているところを、ヤクシカがずっと見ていたのかと思うと妙におかしくなった。***********************************時間にはまだ余裕があったのだが、帰りはのんびり山道を楽しもうと思い、縄文杉を後にした。この、のんびり楽しもうと思ったのが良かったのかもしれない。一定のペースを保ちながら歩いているのが自分でもわかる。縄文杉からパワーをもらったおかげもあり、帰りの道のりはずいぶん楽に感じられた。時間帯のせいなのだろうか、何頭かのヤクシカと出遭う。往路では一頭も見ていないのに、見ていない?見ていないのではなく、見えていなかっただけでは?と、自問自答してみる。休憩中、若い男女の二人組が、「さっきヤクシカいたらしいよ」「見てないね」と話しながら通り過ぎていった。ふと目線をその二人組が行く先の道に注ぐと、山側に二頭のヤクシカがいた。「いるよ」と心の中でつぶやいた。気づくかなと思ったが、話に夢中になっているのか、気づかずに通り過ぎて行ってしまった。僕も縄文杉での休憩中、下ばかり見て、ヤクシカの気配にも気づかなかった。目に見えるものがすべてではない。感性を研ぎ澄まさないと、この神秘性に包まれた森の、ごくわずか一部分も観賞することすらできないのではないか?山道が終わり、トロッコ道との分岐点に着いた。ここはトイレがあることもあり、山道から開放された多くの登山者が休憩していた。ここまで来れば、あとはトロッコ道をひたすら歩くのみで、みんな思い思いの時をここで過ごしている。登山者の話に耳を傾けていると、さきほどの山道で足を滑らせて、怪我をした人がいたらしい。もし僕が怪我をしたら、どうなっていたのだろう?トロッコ道を歩いていく。どこか懐かしい。今朝歩いてきた道なのに、なんだかひさしぶりに歩いている気がする。さっきの山道よりは断然歩きやすい。ここでもヤクシカを見た。今まで見たのは雌鹿だったが、数頭の群れの真ん中に立派な角がある牡鹿いる。かなりの存在感を漂わせていた。廃校された学校の横にある休憩所を過ぎ、一歩一歩、歩くごとにゴールが近くなっていくことがわかる。この登山の終わりを思うと寂しくなってきた。この道が遠々と続いたらいいのに、と思えるようになっていた。雨が降り出した。まるで先を急かしているかのように雨足が強くなってくる。吊り橋をこえ、トンネルを過ぎ、僕の初登山の終わりを告げた。屋根がある作業場跡のようなところで雨をしのいでいた。バスの時間まで一時間以上ある。することもないので、おやつがわりにパンをかじりながら、トロッコ道へ続く道をずっと見ていた。登山者が帰ってくる。みんなとてもいい顔をしている。僕もあの道から出てくるときはいい顔をしていたのだろうか?雨の音が心地良く聞こえてくる。次第にあたりが暗くなってきた。あっ!ホテルに電話しないといけない。下山したらすぐ連絡を入れるように言われていた。携帯を取り出すが圏外。場所を変えても圏外。公衆電話を探すが見当たらない。バスがやってきた。ライトがとてもまぶしい。バスに乗り込む。まわりはみんな朝見たひとたちだ。バスが動き出す。僕はずっとトロッコ道の入り口を見ていた。バスが森を越え、峠を下りていく。さっきの登山口より外は明るかった。朝は見えなかった滝が見える。海上の種子島の街の灯かりがとても綺麗だ。雨がいつのまにか止んでいる。というより路面が濡れていないので降っていなかったのだろう。乗客がそれぞれのバス停で降りていき、乗客の数がしだいに減っていく。僕の番が来た。「お疲れ様でした」乗客に別れを告げバスを降りた。連絡を入れてないこともあり、ホテルの店主が、はやまって捜索願を出していないか、不安だったが、店主は僕の顔を見るなり「おかえり」といつもの感じだったので、拍子抜けしてしまった。部屋に戻り、余った食料を数えてみる。コンビニ弁当二つ、おにぎり三つ、パン一個、おかきにチョコレートに飴がある。ホテルの自販機で冷たいビールを買ってきた。豪華な夕食である。***********************************
2005年04月11日
翌日、レンタカーを借りた。行き先を訪ねられる。今までレンタカーを借りる時に、行き先なんて聞かれたことがない。たいした目的もなかったので、答えにつまる。「とりあえず、西のほうに行こうかと」曖昧な返事になった。最初は島内を一周しようかと思ったが、島の西部にある西部林道は道幅も狭くて、カーブも多く、落石もあるらしいので止めることにしたのだ。とりあえず西部林道の近くまで行ってみようと車を走らせた。西部林道の近くまで来ると、たくさんのヤクザルが道路を占拠していた。海が見える場所で車を停めて、海をのんびり見ようとしたが、あまりにも荒々しい海。海から吹き上げる風が、山に当たり、雲になり、雨を降らすのだろう。天気はいいものの山側のほうにはいくつかの雨雲がある。あまりのんびりできそうな雰囲気でもないので、早々にレンタカーを返しに行こうとした。途中、空が急に暗くなり、雨に見舞われたが、無事にレンタカーを返すことができた。バスで宮之浦まで行く。観光センターに行き、今度は「屋久鯖定食」を注文する。こちらはなかなかの美味だった。徒歩でこのまちを散策すると、ゆるやかな流れの川もあり、とてものんびり安らぎを与えてくれる。ぽつぽつと街の灯りがつく。そろそろホテルに帰らないと、少年のころ、暗くなるまでに帰って来なさい、と母親に言われて帰るように、急いでバスに乗り込んだ。当時のように、この島が暗くなるのが怖いのだ。17時45分、屋久島空港の最終便の飛行機が飛び立つのを、縄文杉に登頂した日以外はいつもこのホテルの窓から見送っていた。飛行機は轟音を響かし、旋回して鹿児島空港に向かっていく。だんだん機体が小さくなっていくと、この島も一旦静寂さを取り戻すことになる。夜の帳をおろす頃には、この島の森がざわめきたつ。風のざわめきや動物たちの雄叫び、まるで島全体がひとつの生き物のような気がする。それらを確認したあと、強い風が吹きすさぶ窓を閉める。それがこの島での日課となっていた。***********************************旅立ちの準備をし、押し込められたリュックサックを背負い、部屋を出ようとするがいつもの癖がでる。僕は旅に出て数日過ごした部屋に愛着を感じてしまい、去りがたい衝動にかられるのである。荷物をドアの近くに置き、いつでも出られるようにして、部屋に忘れ物がないか何度も確認する。風呂場を覗いたり、ベッドのシーツをめくってみたり、冷蔵庫の中を開けてみたり、忘れ物をするのがいやなのもあるが、それよりもなによりもこの部屋を離れることが名残惜しいのだ。意を決して部屋を出てドアを閉めるのだが、またドアを開け、部屋の中に入ってしまう。そんなことをしているうちにバスが来る時間になってしまった。足早にホテルのチェックアウトを済ます。気遣ってくれた主人はいなかった。乗り慣れたバス停に、時間どおりにやってきたバスに乗り込む。船の時間まではまだ間があるので港を通り過ぎ、中間のガシュマルとフラワーパークを見学した。最後の観光を終え、バス停でバスを待っていると、地元のおばあさんがやってきた。話し相手になってもらい、雨のことやこの島のことなどを質問してみた。驚いたことに、おばあさんは一度もこの島から出たことがないらしい。ずーっと百姓をしていたと、これからも百姓をし、島を離れずここに骨を埋めるだろうと、港へ向かうバスに乗り込む。屋久島のバスはいたって単純で、島をまわるこの路線バスは、ホテルから街へ出るのにとても重宝した。通学時間帯にぶつかり、たくさんの高校生が乗り込んできたこともあった。最後の屋久島の景色を車窓から楽しんでいた。恋泊や焼酎川という風靡な名前の停留所を過ぎていく。この島とも、やっとお別れだなと思った瞬間、突然大粒の涙が目からこぼれ落ちた。悲しいというわけでもなく、寂しいというわけでもない。自分の意識とは関係のないところで、感情が何かに触れたのだ。何故か?今回の旅がつらかったからだろう。縄文杉登山の想像を越えたきつさ、登山者を迷わす森、不安と孤独、時折強く降る雨。サウナの中にいるような湿度、靴下や下着までずぶ濡れになって、ボロボロになりながら前に進んでいった。この島であったことが走馬灯のように蘇ってくる。いつも気にかけてくれたホテルの主人。何度も顔をあわせた乗り合いバスの運転手。ご飯を大盛りにしてくれたおばさん。大雨の中、屋根のないバス停で、一時間待ちぼうけをしたこと。港の待合所で一人旅らしき青年が涙ぐんでいた。このひともつらかったのだろう。船が動き出す。屋久島がだんだん小さくなっていく。屋久島は光と闇の島。その闇は暗くて深い威厳のある恐怖。僕の心の闇に触れ、そして響いて、浸食していった。しかし、僕の旅はここでは終わらなかった。
2005年04月10日
"目に映るものがすべてだと思っていた。"鹿児島から奄美大島へのフェリーに乗り込んだ僕は、まだ屋久島を引きずっていた。自分の認識の甘さに嫌気がさし、自己嫌悪に陥り、旅に対してもひどく臆病になっていた。気を抜くと寂しさのあまり、涙がこみあげてくる。奄美大島では無事で過ごせれば、何もせずにいようかと真剣に考えていた。とりあえず明日の宿を予約しておこうと携帯でホテルに電話をかけた。名瀬市にあるホテルに2泊して、飛行機で伊丹まで帰る予定だ。ところが明後日の予約は取れるのだが、明日の部屋が確保できない。とりあえず明後日のホテルを確保し、ガイドブックとにらめっこをする。奄美大島南部の古仁屋にあるホテルに決め、携帯を取り出すと圏外になっている。あたりまえのことだ。ここは海の上。出航したばかりなのに、ロビーには缶ビールを飲んで出来上がっているひとがいた。テレフォンカードを持ってロビーの横にある船内電話で、古仁屋のホテルにかけてみる。やたら声が遠かったが部屋は取れた。一安心し、船内の地図で風呂の場所を探すが、見当たらない。たいてい大型客船には大浴場があるのだが、このフェリーにはなかった。大型客船というよりは、大型貨物船に客室があるような船だ。僕の泊まる客室は2等寝室である。以前、いわゆる雑魚寝といわれる2等で旅したこともあるのだが、寝返りもできず、気をつけの状態で寝るということができなかったので、今回は2等寝室を取ったのだが、部屋に戻る時に見た2等の部屋は寝返りどころか、でんぐり返しが何回もできるくらいにすいている。使われていない2等の部屋もあった。今回の2等寝室の部屋だが、2段ベッドがふたつあり、テレビも置いてある。相部屋の人が乗り込んでこないかドキドキしたが、結局僕ひとりだった。僕はテレビ好きで海外旅行のときでも言葉がわからなくても、部屋にいるときはテレビをずっと見ているほうなのだが、今回は屋久島でもそうだったが、テレビをつけていても、うわの空だった。自分探しの旅に出たつもりなのに、すっかり自分を見失っている。食堂の閉店の時間を知らせるアナウンスが入る。急いで食堂に行く。平日のせいなのか、乗船客は少ない。みな島に帰るひとたちで、観光客は僕ひとりなのではないか?船のデッキに出てみるが、星も見えない夜空、体に吹き付ける潮風。どこへ向かっているのだろうかと思える広い夜の海。とりあえず日本列島を離れていっていることはわかる。部屋に戻り、またガイドブックとにらめっこする。名瀬で下船する予定だが、この船は明日の宿がある古仁屋にも寄港するらしい。名瀬で降りてバスで古仁屋に向かうか、この船で古仁屋まで行くか。考えるのも面倒くさくなってきたので寝ることにした。目が覚め、しばらくして喜界島に到着するアナウンスが入る。この喜界島からはもう奄美大島が見える。喜界島はわずか周囲48.6kmのとてもちいさな島。この島に降りたいと思った。早く上陸したい。名瀬で下船することにした。名瀬港からバスターミナルはけっこう距離がある。天気も体調も良いので歩くことにする。近くの学校では野球の練習をしている。自転車で通学している学生が行き過ぎる。車がせわしなく行き交う。生活の匂いがする。いつもの日常がここにはあった。***********************************奄美群島本土復帰50周年なるポスターを見かけた。ガイドブックにも書いてあったのだが、僕はそれまで奄美大島が米軍の占領下にあったことを知らなかった。奄美の歴史は1440年頃琉球王朝の支配をうけ、1609年に薩摩藩の支配をうけて、廃藩置県後、鹿児島県になる。1946年に連合軍最高司令部の覚書により本土と行政分離され、臨時北部南西諸島の名称が付される。そして、1953年のクリスマスの日に本土復帰を果たすのである。時代のうねりに翻弄されてきた奄美大島。だけどそんな悲しい歴史も感じさせない。それは人の歴史であって、自然の歴史ではないからだろうか?この島の主役は人ではなく、自然にあるのかもしれない。ついでながら有名な「大島紬」もこの島の名産だと知らなかった。大島というひとが作ったブランドだと思っていた。バスターミナルに着く。行き先を名瀬と古仁屋の中間点にあるマングローブパークに決めて、案内所で行き方を尋ねると、途中で乗り換えなくてはいけないらしい。言われたバスに乗り込んだ。乗客は3人ほどで郊外に出るまでにみんな降りていってしまった。バスは国道58号線を南下していく。空港のある北部の笠利町から南部の古仁屋まで南北を縦断する国道なのだが、実はこの国道58号線は海を渡るのである。鹿児島市を起点とし、種子島、奄美大島を通り、沖縄本島まで続く国道である。古代、日本列島がまだ誕生していなかった頃に、大陸へとつながっていた道筋なのだと思うと感慨にふける。琉球弧と呼ばれる中国から台湾、沖縄諸島、奄美諸島まで陸続きに、日本人の祖先が渡ってきた道。沖縄や奄美、中国に行くと、長い間忘れていた記憶と、はるか遠い過去を取り戻すためにここへ導かれたような錯覚に陥る。「確かにここにいた」と僕のDNAが騒ぐのである。一般には「沖縄病」や「沖縄依存症」というらしい。バスの終点に着く。地図で見ると、ここから歩いてもいける距離だ。運転手に歩いていくと告げると、30分後のバスを待ったほうがいいよと言われるが、大丈夫ですと歩き出した。結局、バスよりも早くマングローブパークに着くことができた。道の駅という看板が立っている。大きな駐車場に綺麗な建物がある。入園券を買い、中に入るとカヌー教室をやっていた。前に行った西表島や屋久島でも、何艇ものカヌーを見て、一度やってみたいと思っていた。ひとりでも参加できるらしいので、さっそく申し込んでみた。次のカヌー教室まで時間があるので、モノレールに乗って展望室に行く。展望室からみる風景に思わず感動してしまった。目に映る風景はゆるやかな流れの川に沿うようにマングローブの原生林があり、遠くに山々が聳え立っている。すばらしい絵画に出会った瞬間のような、これが現実の世界にあることを、しばらく受け入れられずにいた。そしてカヌー教室に行く。カヌーといっても日本ではカヤックにあたるものもカヌーと呼んでいる。オリンピック競技の正式種目でもあるカヌーとカヤックの違いは、シングルブレードのパドルを使いオープンデッキのものがカヌーで、ダブルブレードのパドルを使いクローズドデッキを使うのがカヤックである。僕がこれから乗るのはカヤックであるが、ここではカヌーと呼ぶことにする。そして、僕のカヌー初体験。手塚治虫の火の鳥に出てくる鼻の大きなキャラクターに似ているインストラクターが教えてくれた。パドルの使い方を教えてもらいカヌーを浸水させる。浮いた。パドルを使って前に漕ぎ出すのだが、最初のうちはまっすぐ進めない。他の参加者の艇と、ぶつかったり、ぶつけられたり、楽しい。この旅に出てから、初めて心の底から笑った。***********************************
2005年04月09日
古仁屋に行くためバス停に行くが、時刻表がついていない。しかたなく次のバス停まで歩く。左手にマングローブ林が見える。奄美大島には「モダマ」という枝豆を人間より大きくしたものが生えている。それが見えないかと山のほうを見ながら歩いた。動物では絶滅危惧種で原始の姿をとどめたままのアマミノクロウサギを始め、オオストンオオアカゲラ、ルリカケスなど自然と動物の宝庫だ。それにハブもいる。下も注意しながら歩いたほうが良さそうだ。次のバス停についた。時刻表がない。雨ではがれた後はあるのだけれど。また歩くことにした。今日は歩き詰めで、さすがに疲れた。次のバス停には時刻表があった。小一時間待たねば…、待とう。今回の旅の目的は奄美大島にあった。と、いうのも僕は元ちとせ氏の大ファンなのである。タイトル自体もホントは「奄美の島々から元ちとせを想う…」なのである。しかし、元ちとせの歌の第一印象は、デビュー曲を聴いた時に、独特な節回しが、どうも苦手で、それからは聴きもしなかった。それに「はじめちとせ」を「もとちとせ」と読んでいた。人の気持ちの移り変わりとはおもしろいものである。きっかけとなったのは、2003年にムービーau夏のCM「それぞれの夏/沖縄」を見た瞬間、沖縄に行きたいと強く思ったのだ。ひとり旅の竹野内豊に、子供達が元気よく「こんにちは」と声をかけていく。沖縄のゆっくりとした風景や、太陽や海がとてもまぶしく、その時に流れていたのが元ちとせの「いつか風になる日」だった。この曲を沖縄で聞くために旅に出よう!そして、八重山諸島に出かけていった。その旅は見るもの聞くもの感じるものすべてが新鮮で、持っていった元ちとせのアルバム「ノマド・ソウル」は、良い旅のスパイスになった。すっかり元ちとせの音楽にハマった僕は、帰ってきてから次の旅先を奄美大島に決めていた。一週間の休みが取れることになり、ガイドブックを探してみると、屋久島と奄美大島がセットのガイドブックしかない。屋久島も世界遺産になったことだし行ってみるか、という安易な気持ちで屋久島に行ってしまったのだった。元ちとせ氏は奄美大島でも小さな集落の生まれで、全校生徒4名という小学校で、入学式も、卒業式もひとりだった。高校3年のときに「奄美民謡大賞」を史上最年少で受賞。東京からスカウトが来るがびっくりして追い返したという。高校卒業後、美容師になる夢を持って大阪へ行く。大阪の美容院で働くがパーマ液が体にあわず、医師に美容師をあきらめるように薦められる。人生で初めての挫折と屈辱。宿命として受け入れたのだろうか?しかし彼女はもう一度立ち上がる。東京で大きな夢を掴むのである。人それぞれにドラマがある。僕は教えられた。目に見えるものすべてが真実ではない。そして、生きていく力強さを・・・。「目に見えるもの、目に映るものが、すべてではない。」僕が、元ちとせを通して、石垣島、西表島、竹富島、屋久島、奄美大島を旅して、学んだ言葉。自分なりの解釈としては、自分の世界観と度量が狭いということ。本当に大切なものは目に見えない、目には映らない。わっかったふりをするなという自分への戒めの言葉。それと、人間の常識は、自然界にとっては非常識で、誰のための常識で、誰の都合のための非常識なのか?人間社会に対する不満の言葉。この旅が少しだけ僕を変えた。当然、まわりのひとは誰ひとり、気づいてないのだけれども。古仁屋に近づくと僕の鼓動は早くなってくる。途中、嘉徳に向かう道との分岐路に来る。この道を左へまがれば、僕の魂を奮えさす、あの声のルーツにたどりつけるのだ。嘉徳という集落は、陸の孤島のようなところにある。交通手段といえば、この細く長い道を通っていくしかない。その道の終点に集落がある。まわりは険しい山に囲まれ、港にはならないようなちいさな入り江がある。今でこそ、その道も舗装してあるが、昔は荒れた道で土砂くずれなどがあっても何年もそのままの状態だったのではないか?まさしく陸の孤島である。このときは、地図上のイメージでしか想像できなかったのだが。見晴らしの良い峠を下る。奄美の島の山も、とても険しい。はるか眼下に古仁屋の町を見下ろす。古仁屋についた。この町はなんとなくだが、幼い頃の記憶にある僕が育った町に似ている。良き時代の昭和のイメージがぴったりする小さな町だ。僕の住む町に帰ってきてからも、たまにこの古仁屋の町を思い出す。ホテルにチェックインする。ひさしぶりに風呂に入り、食事を取りに外へ出かけた。まわりはもう日が暮れている。パチンコ屋の二階にある居酒屋で食事を取ることにした。オリオンビール、黒糖焼酎と、鶏飯と刺身などつまみながら、ちょっと贅沢に時を過ごした。カセットテープから流れてくる島唄が心地いい。沖縄でもそうだったが、この三線の音色は旅の疲れを癒してくれる。お客のおばさんが通りすがりに、僕をからかってくる。「彼女はいつ来るの?」「いえ、ひとりです」「また、また」この島の人は明るい。太陽のように、***********************************
2005年04月08日
翌日、嘉徳へ行くバスの本数が少なく、接続時間も良くない、泣く泣くあきらめて、船で加計呂麻島に渡ってみることにした。加計呂麻には、ふたつの港がある。平家の落人伝説や「男はつらいよ」の撮影地などもある島だが、僕は加計呂麻のひとつの港に船で行き、バスに乗ってもうひとつの港から古仁屋に戻ってくるというこの島の観光をしないコースにした。「生活するように旅がしたい」というのが僕の旅の主題である。観光客しかいない観光地に行くより、その土地の匂いや生活を少しでも感じたいのである。チケットを買い、船に乗り込んだ。ここの海の色はとてもキレイだ。信じられないほど美しい緑色の海。僕は子供の頃から、ずっと海の色は青い色をしているものだと思っていた。常識だと思っていたものが常識ではないのだ。船員のひとりがくわえ煙草をしていた。その煙草を海へ投げ込んだのだ。よくみるといくつかの煙草が浮いていた。う~ん。港につくとマラソン大会をやっていた。この大会は、深夜にテレビで見たことがある。人ごみを避け、バスに乗り込んだ。この島の生活路線であろうバスだが、港を出るとき乗客は僕ひとりだった。途中から4人組の老人が乗り込んできた。そのひとりのおばあさんが信じられないほどの厚化粧をしている。その4人は大きな声で話しているのだが、言葉がわからない。耳をすませ、聞き取ろうとするがわからない。4人組はすぐに降りていき、次の港まで誰も乗ってこなかった。バスの運転手は民家のポストに新聞や手紙や宅配便などを配っていく。そのせいか次の港まで時間がかかってしまった。港の待合所で三線を弾きながら歌っているおじさんがいた。挨拶をすると、どこから来たかと訪ねられた。さっきの4人組のことがあったので言葉がわかって胸をなでおろした。奄美の唄で知っている唄があるかと聞かれ僕は「むちゃ加那節」しか知らなかった。この、むちゃ加那は哀しい物語なのである。実際にあったことを、島唄として語り継がれているのである。この加計呂麻島にウラトミという絶世の美女がいた。薩摩の小役人に見初められるのだが、権力に屈したくないウラトミは拒んでしまう。家族は罪になるのを怖れ、ウラトミを小舟で海へ流してしまう。喜界島に流れ着いたウラトミは地元の漁師と結婚し、ムチャカナを産む。成長するたびに美しくなるムチャカナを同世代の村の娘たちは嫉妬し、海に誘って岩場から蹴落としてしまう。母のウラトミも後を追い、二人は帰らぬ人となる。三線の音色はこんな哀しい物語も浄化し、聞くものを月の光のようにやさしく包み、太陽のように温かい気持ちにさせる。古仁屋に戻ってみると、水中観光船のポスターがある。名瀬行きのバスまで少し時間があるので、乗ってみることにする。チケット売り場に行くと次の便がもう出るらしい。急いで乗り場まで行く。連絡していてくれていたのか僕を待っていてくれた。正直、あまり期待をしていなかったのだが、初めて見る海の中の珊瑚と、熱帯魚にあっけにとられた。竜宮城という例えが正しいのかどうか、とりあえずそこは別世界だった。奄美には「ネリヤカナヤ」という言葉がある。海のかなたには神々が住む楽園(ネリヤカナヤ)があると言い伝えられていた。僕にとってはこの島がネリヤカナヤに違いない。バスで名瀬に戻る。途中、嘉徳への分岐路で君を想う。今回の旅で君に会うことはできなかった。またいつかここに来るから。ホテルにチェックインし、部屋に入ると、机のうえにパンフレットがおいてある。宿泊者にはレンタカーの割引をしてくれるとのこと。車があれば一度はあきらめた嘉徳に行ける。と思い。さっそく内線でホテルのフロントに電話するが、直接レンタカーの営業所に連絡してくれとのこと。渋々リュックの奥のほうに眠っていた携帯を取り出し、予約を入れた。ホテルで夕食を取り、夜の町を散策してみる。途中、寄ったスーパーに「おにポー」が置いてある。うれしくなって買い込んでしまう。長かったこの旅の最後の夜。***********************************朝、目覚めは良い。ホテルの部屋からもすんなり出られた。1泊しかしてないので情が移ってないのもあるが、今日は元ちとせのふるさと「嘉徳」に行くのである。ホテルのまん前にあるレンタカーの営業所に行く。返車は空港の営業所に返す予定で、ひととおりの手続きを済ませ、車に乗り込む。CDはもちろん元ちとせ。デビューアルバムの「ハイヌミカゼ」を聞きながらのドライブだ。このアルバムの中で「君ヲ想フ」が一番のお気に入りである。この作詞は彼女自身で、18歳で奄美を出る時、空港で見送る友達や両親と離れる淋しさや都会で一人で生きるという不安で泣き崩れた。でも、そんな不安を抱えてやってきた都会で出逢った人達に”ふるさとを想うという気持ちをもらった”と、そんな気持ちを詞にしたそうだ。サビの部分になるとつい大声で歌ってしまう。この旅のクライマックスの嘉徳までの道中が、楽しくて仕方がないのである。何度も通った国道58号線を走る。長いトンネルをいくつか越え、カヌーをしたマングローブパークで休憩をとる。またカヌーをしたい衝動にかられるが先を急ぐことにする。一昨日歩いた道を車で通る。歩き疲れてバスを待っていたバス停を過ぎると峠に入る。急なカーブが続く。道路に書かれた「スピード落とせ」の文字が「元ちとせ」に見えてくる。「○○とせ」しかあってないやん。と、ひとり突っ込みまで出てしまう。一昨日と昨日、バスで通過した嘉徳の分岐路に着く。今日はこの道を曲がれるのだ。うれしさがこみあげてくる。ここからは道幅が狭くなる。車の運転は不馴れなので、対向車が来ないよう祈りながら車を進めていった。ずーっと民家もない山道。途中、蛇が道路を横切っていくのがみえた。ハブではないと思うのだが。やっと民家が見えた。路地のような細い道を通り、嘉徳のバス停の近くに車を停めた。まず嘉徳の海岸に出てみた。元ちとせもこの海岸を見ていたと思うと感慨にふける。それから集落を歩いみた。コンビニも自動販売機も見当たらない。歩くとすぐに突き当たりに出てしまい、そこには学校があった。中には誰もいる気配がない。ちょうど、おばあさんが通りかかったので聞いてみた。廃校にはなっていないが休校の状態になっているらしい。しかしこの村には子供がいないのでいずれは無くなると。ついでに元ちとせの生家はどこなのか聞こうかと思ったが、やめた。ほんのすこし歩いただけだが、帰ることにした。ここで君を想えたこと、君を感じられたこと。それだけで僕の最高の想い出になる。空港へ車を走らせる。まぶたを閉じれば、あの小さな集落と嘉徳の海岸が甦ってきた。おわり
2005年04月07日
貫きたい想いがあったとしても人は状況によって簡単に想いを変えてしまうだから私は今まで人を信じたことなかった幼い頃、たまたま旅行に来てたホテルで火事になった。煙で前も見えず、聞こえるのは叫びだけ。長年つれそった妻でさえも置いて逃げる人自分の命が大事で子供さえも突き飛ばし先に逃げようとする従業員誰一人として自分を優先してるとしか思えなかった恐かった。迫りくる火よりも人の本性がそんな想いを隠しながら生きてきた。誰も信じず一人で生きてきた。その中で大地震は起こった忘れもしない次第に大きくなる揺れ、倒れる柱、割れるガラス、立つことさえもできない、何が起こっているのか考える暇をあたえない気が付くと倒れてきた柱によって私は下敷きになってしまっていた。あぁ、終わりだ。生きたとしても恐かった。また人の本性を見てしまうのが‥助けなんて期待しない。ただ死ぬのを待っていた。そんな時、声が聞こえた「待ってろ!今、助けてやる」隣の家の人だった。見ると右手にヒドイ傷を負っている彼は両手で柱を持ち上げた。信じられない。その人は大工だ。そんな事したら傷がヒドクなり右手が使えなくなる「手が開いてるヤツ手伝ってくれ!」彼はそう叫ぶと人が次々に現われた皆、傷を負っている。知らない他人を助けるために自らを犠牲にしてまで、かけつけてくれた。幼い子供ですら来てくれた。助けだされた私はお礼を言い謝った。そうすると彼は告げた「ははは!人の手はな、守る為にあるもんだ!ははは!」涙が出た。周りを見ても息子をカバって下敷きになってしまった人妊婦にパンを笑顔で渡す食べ盛りの幼い子供犬でさえも必死になって助けようとする人々。火が上がってる家に飛び込み助けようとする人身内どころか他人なのに必死だった一人も…誰一人として自分を優先にしてる人などいなかった大人になった私は、消防士になった。自分のこの手で沢山の人を助けようと思う。
2005年04月06日
俺さ、産まれた時から酷い小児喘息だったのよ。夜中にかーちゃん起こして病院連れてってもらうなんてしょっちゅうだったし、小学校あがって更に病状が悪くなって。もちろん体育なんかでれないし、みんなと外で遊ぶ事すらできなかった。んで、小五になってからほぼ毎日病院行って吸入するくらいまで悪化しちゃって、そのまま3週間入院する事になって。。。んでね、そん時4人部屋の病室だったんだけど二人はおばあちゃんとおじさん、んでもう一人は俺と同い年くらいの女の子だった。俺、昔からすげぇ人見知りが激しい上に物凄い照れ屋で、なかなかその同室の人達と仲良くなれないで一人で勉強してるかゲームボーイやってるかだったのよ。そん時家から持ってきたソフトが「Saga2」で、もう一回クリアしたやつだったんだけどヒマだしもっかいやるかな、って毎日やってたワケさ。んで入院して一週間立った頃、俺がゲームボーイやってる時はなんかその同室の女の子がじーっとこっち見てる事に気づいたんよ。俺が彼女の方みると慌てて目逸らすんだけどね。もしかしてやってみたいのかな?と思って、「良かったらコレ借そうか?」って聞いたのよ。そしたら目ぇ輝かせて「いいの?」っていうもんだから、「もう飽きたからな」とか照れ隠しして借してあげたさ。でも案の定操作が分からないらしく、画面とずっとにらめっこしてるもんだから俺が操作教えながら一緒にゲーム進めることにしたんよ。パーティーは人間・男の主人公「リョータ(俺の名前)」で、仲間は人間・女「さやか(彼女の名前)」あとはエスパーガールとロボットにそれぞれ同室のばあちゃんとおじさんの名前つけたっけ。それからどんどんそのコと仲良くなって、二人でゲームボーイやるだけじゃなく、色んな話もするようになった。学校の事、家族の事、好きな音楽の事、近くに迫った夏休みの事…それからの時間はあっという間だった。すぐに俺が退院する時がやってきた。看護婦や同室のおじさん、ばあちゃん達が口々に「おめでとう」って言ってくれてる中彼女だけ泣いてた。それ見て俺も泣きそうになったさ。でもグッと堪えて「オマエ退院するまでコレ借してやるよ。退院したら連絡くれよな」ってそのままゲームボーイとSaga2置いていったのよ。それから何回もお見舞しに行こうと思った。…でもいざ行こうかと思うとなんか照れくさくて行けなかった。連絡がないまま1年半が過ぎて、俺も小学校を卒業する頃になった。せめて卒業前にもう1度会っておきたいな、と思って意を決してお見舞に行く事にしたんよ病室に行ったけど彼女はいなかった。病室入口の名前欄にもない。もうとっくに退院してたのかな…?と思ってとりあえずナースセンターで聞いてみた。「遠い所にいった」とかうまくはぐらかされたけど、俺も小6だったし、そこまでバカじゃない。その場の空気や後ろの看護婦が泣き出したのを見ても明らかだった。俺がショック状態で呆然としてる中、その看護婦が「ああ、そういえばさやかちゃんから、リョータ君が来たら渡しといて、って言われた物があるのよ」と言って俺にそれを渡してくれた。借してあげたゲームボーイとSaga2だった。俺はそれを受けとって家に帰った。帰るなりメシも食わないで、暗い自分の部屋でゲームボーイのスイッチを入れた。懐かしいあのOPの音楽。それと一緒にでてくるロード画面。一つは彼女と俺が一緒にプレイしたデータ。あの時からほとんど変わってない。懐かしさと悲しさで胸がいっぱいになった。もう一つのデータはやたらレベルの低いデータだった。最初から始めてすぐ飽きたんかな?と思ってそのデータをロードしてみた。パーティー四人の名前がこうなっていた。「リョータ」「いろいろ」「ありがと」「バイバイ」…今でもSaga2のOPの曲を聞くと涙が出るよ。お見舞行ってあげられなくてゴメンな…。
2005年04月05日
ヘタレバツイチ男は、今日も仕事で疲れきって、遅くなって家に帰ってきた。すると、彼の5歳になる息子がドアのところで待っていたのである。彼は驚いて言った。「まだ起きていたのか。もう遅いから早く寝なさい」「パパ、寝る前に聞きたいことがあるんだけど」「なんだ?」「パパは、1時間にいくらお金をかせぐの?」「お前には関係ないことだ」ヘタレなリーマンである父親はイライラして言った。「なんだって、そんなこと聞くんだ?」「どうしても知りたいだけなの。1時間にいくらなの?」男の子は嘆願した。「あまり給料は良くないさ…20ドルくらいだな。ただし残業代はタダだ」「わぁ」男の子は言った。「ねえ、パパ。ボクに10ドル貸してくれない?」「なんだって!」疲れていた父親は激昂した。「お前が何不自由なく暮らせるためにオレは働いているんだ。それが金が欲しいだなんて。だめだ! 早く部屋に行って寝なさい!」男の子は、黙って自分の部屋に行った。しばらくして、父親は後悔し始めた。少し厳しく叱りすぎたかもしれない…。たぶん、息子はどうしても買わなくちゃならないものがあったのだろう。それに、今まで息子はそんなに何かをねだるってことはしなかった…。男は、息子の部屋に行くと、そっとドアを開けた。「もう、寝ちゃったかい?」彼は小さな声で言った。「ううん。パパ」男の子の声がした。少し泣いているようだ。「今日は長いこと働いていたし、ちょっとイライラしてたんだ…ほら。お前の10ドルだよ」男の子は、ベッドから起きあがって、顔を輝かせた。「ありがとう。パパ!」そして、小さな手を枕の下に入れると、数枚の硬貨を取り出した。父親はちょっとびっくりして言った。「おいおい、もういくらか持ってるじゃないか」「だって足りなかったんだもん。でももう足りたよ」男の子は答えた。そして、10ドル札と硬貨を父親に差しのべて言った。「パパ。ボク、20ドル持ってるの。これでパパの1時間を買えるよね?」
2005年04月04日
MY LITTLE LOVERの『Hello,Agein~昔からある場所~』から自分の限界が どこまでかを知るために僕は生きてる訳じゃないだけど新しい扉を開け海に出れば波の彼方にちゃんと"果て"を感じられる僕は この手伸ばして 空にすすみ風を受けて 生きて行こうどこかでまためぐるよ遠い昔からある場所夜の間でさえ 季節は変わっていく雨は やがて あがっていた"記憶の中でずっと二人は生きて行ける"君のこえが今も胸に響くよそれは愛が彷徨う影君は少し泣いた?あの時、見えなかったmy little lover/singles
2005年04月03日
子供の頃の話だけど俺んち母子家庭で貧乏だったから、ファミコン買えなかったよ。。。すっげーうらやましかったな、持ってる奴が。俺が小6のときにクラスの給食費が無くなった時なんて、「ファミコン持ってない奴が怪しい」なんて、真っ先に疑われたっけ。貧乏の家になんか生まれてこなきゃよかった!って悪態ついたときの母の悲しそうな目、今でも忘れないなぁ、、。どーしても欲しくって、中学の時に新聞配達して金貯めた。これでようやく遊べると思ったんだけど、ニチイのゲーム売り場の前まで来て買うのやめた。そのかわりに小3の妹にアシックスのジャージを買ってやった。いままで俺のお下がりを折って着ていたから。母にはハンドクリーム買ってやった。いっつも手が荒れてたから。去年俺は結婚したんだけど、結婚式前日に母に大事そうに錆びたハンドクリームの缶を見せられた。泣いたね、、。初めて言ったよ「生んでくれてありがとう」って。
2005年04月02日
玉置浩二の「ルーキー」からの歌詞の一説。勝負の世界は残酷だ。結果がすべてで負けるとそこで終わりになってしまう。だからこそ感動を生む。どんなに頑張ってても、まわりにめぐまれないひともいる。でもちゃんと見ていてくれているひとがいるはずだから今日も精一杯生きていこう!!田園 KOJI TAMAKI BEST長島茂雄氏の名言 "勝って驕るな 負けて腐るな"
2005年04月01日
愛・地球博が開幕と同時に弁当持込禁止についてマスコミに叩かれた。ふとUSJが不祥事でマスコミに叩かれていたのを思い出した。TDLやTDSはオープン以来、何の問題もなく運営できているのか?昼の番組のMM司会のニュースは全国放送のはずなのに大阪で起きた事件がやたら多い。ただの偶然なのか マスコミが東京にあるからか「愛・地球博」にしても初日の開幕と弁当持込が報道されただけで「六本木ヒルズ」のほうがインパクト大きかったぞ!!犯罪が起きると容疑者は「ゲームが好き」で「無職」だった。などのキーワードが出てくる。犯罪を無職のせいにすると失業率がアップするとでもいうのか!!ゲームをするとテレビを見なくなるからゲームを叩くのか!!まるで洗脳のような「韓流ブーム」韓国大統領の問題発言はもっと取り上げないのか?報道規制でも受けているのか!!WILLCOMの通話定額をもっと報道しろ!!芸能人やマスコミ関係者や議員さんにドコモが多いのはなんでだ?ひょっとしてそれ通話定額なのか?コピペ↓在京マスゴミの法則と思われるものをあげていこう!(皆で足してください) コピペ推奨 ■関西の暗いニュースの「直後」に、東京の明るいニュースを流す(頻繁に見れるw) ■関西の明るいニュースの「直前」に、関西の暗いニュースを流す ■ゴールデンウィーク、お盆休みなどの長期休暇前に、関西のホテルの食中毒事件などを流す (東京は大阪よりも食中毒が多い(率でも)) ■関東と同じような事件でも関西の場合はおどろおどろしく伝える 司会者が顔をしかめて「怖いですねー」などという 東京の事件は、事務的、冷静、サラッと伝える ■関東に一番多い性感染病なども日本で増加しているという ■関東にもあるようなものでも、負の話題ならばわざわざ西日本まで出張しに来る 正の話題は、西日本の方が優れていても扱わず、世間から抹殺する (関東>>東北>>関西、東日本に多いニセ札、なぜか西日本の事例ばかりを取り上げる) ■大阪の事件を報じる時は必ず「大阪」を2回以上言う。 大阪以外だと県名は1度しか言わない。 東京の場合は1度も言わない事が多い。■西日本で起こった凶悪事件は連日事細かに報道される。 東京の場合は事件発生時と逮捕された時に検証されるだけ。>>三菱自、本社移転白紙に 1000人が「京都なら退職」 全国紙にそんなこと書かんでも(-_-;)>>東京の指名手配犯はみんな地方に逃げれば捕まらない。 >>東京の事件は地方ではニュース放送されないからな。 東京ローカルのニュースってあるんだな(-_-;)暴走する新成人たち沖縄では今年も新成人たちが街で暴れました。高知でも新成人が市長に暴言を吐き、壇上に上がり…浦安市では晴れ着姿の新成人たちが東京ディズニーランドで成人式を迎えました…おいおい(-_-;)
2005年03月31日
玉置浩二の「田園」からの歌詞の一説。この歌を聴くと心にずしっとくる。生きていく それでいい 他に何が必要?つらいことや哀しいことがあったって生きていくこと以上に重要なことはない。まわりのペースにあわせるんじゃなくて自分のペースで生きてけばいいっ!!生きていくんだ それでいいんだビルに飲み込まれ 街にはじかれてそれでも その手を離さないで僕がいるんだ 君もいるんだみんなここにいる 愛はどこへも行かない田園 KOJI TAMAKI BEST
2005年03月29日
素人の意見だけど。アジア最終予選北朝鮮戦、後半ロスタイムに得点をあげ薄氷の勝利。イラン戦、海外組召集し最強チームで挑むが負け。僕は試合前、0-2で日本負けを予想していたので(たまたま会社で聞かれたので答えてしまった)日本は善戦した感があり、イランも想像していたほど強いとは思わなかった。負けを予想したのはフォーバックにするということと一年ぶりの日本代表復帰の中田の招集。ジーコJAPANがたびたび使うフォーバック。日韓のワールドカップで日本のフラットスリーは世界に通用することをトルシエが証明したのに何故にフォーバック?あきらかにトルシエを意識しての采配とも取れる。イラン戦の前にジーコは4-4-2のフォーバックを攻撃型布陣と言っていた。4人ディフェンスを置いておけば安心して攻撃に集中できるからか?結局、中盤とディフェンスラインの間にスペース(穴)ができてボールを支配されていた。ラインコントロールできる宮本がいるのだからスリーバックを続けて欲しい。もうひとつ、中田と国内組の不仲説。イランの監督が「日本の弱点を見つけた」と言っていたがそれは中田のことではなかったのか?中田だけは中盤でボールをフリーで持たせてもらっていた場面が多かったような気がする。中村や小野がボール持ったら、イラン選手はすぐに潰しにきていたのに。もしかして中田を天狗にするために?イラン監督は第二戦も視野に入れて戦略を練ってきているのでは。全試合勝つつもりのジーコとは違うところ。ジーコには戦術がないと言われている。それは南米のサッカーがそうだからだ。戦術の練習をしても、試合で同じ場面が訪れることはない。戦術とは個々の場面で選手のインスピレーションに応じて選手自身が判断するもの、らしい。試合後半中村が同点後、ジーコに聞いた。さらにもう1点取りに行くのか?守り(同点)狙いなのか?「ジーコは攻撃だ!」と言った。しかし、試合後、インタビューでは、攻撃か、守りかはっきりしなかったとコメントしていた。選手は同点でいいのではと消極的になったのか疑問が残る。宮本も試合後悔やんでいた。あきらかにここで監督と選手の戦術面での迷いがあったのは確か。選手交代のたびに相手チームのペースになっていったのも気になる。小野を変えたのもフェイエとの契約のためだとかイエロー1枚もらっていたとかあるけど流れが変わってしまったね。次のバーレーン戦は勝つだろう。4-4-2から3-5-2に戻すらしい。中田もまわりの選手に気を使っている気がする。まだ日にちもあるのでみんなでキャバクラに行って連帯感をつけて欲しいところ。中盤からディフェンスはアジアトップのちからを持っている日本。決定力(FW)がないのは相変わらずなのでいっそのこと『キングカズ』を召集してみては?そんなことができるのもジーコしかいない本大会よりも予選のほうが難しいといわれるワールドカップ。あのフランスもオランダもイングランドも予選敗退したこともある。代表監督が初めてのジーコ監督もつらい。「こんなはずでは」の繰り返しなのでは?結果論で書いてしまったけどジーコJAPANを応援しています!!~サッカーボールは丸い。どっちに転ぶかは最後にならないと分からない~
2005年03月28日
ネットを徘徊していたらこんな噂(妄想)を目にしてしまった。来年度以降神戸空港開港関西国際空港の第二滑走路運行開始と伊丹空港の廃港に向けて着々と進行している。跡地に大型ショッピングセンターや高層マンション群ができるなら需要のある伊丹空港を廃止する意義がないが首都機能移転なら話は膨らんでくる。まず立地という点では最高の場所。京都と神戸の中間点にあたり梅田や新大阪に20km以内である。隣には京都があり京都御所、京都迎賓館、京都国際会議場、京阪奈学研都市が利用できる。道州制導入で大阪が首都というより近畿経済圏が首都になる。首都移転と同時にオリンピック立候補。オリンピック開催とともに世界に首都移転のアピールもできる。東京はニューヨークに関西はワシントンになる日は近い??
2005年03月27日
近代的な京都駅ビルとは対象的にレトロな京都タワービル。。。その地下三階に銭湯がある。昭和臭さの残る京都タワーデパートから階段で地下三階に降りる。誰もいないゲームセンターと散髪屋がありその中間地点に「京都タワー浴場」がある。自動券売機でチケットを買い受付で渡すと黄色い小さなタオルを貸してもらえる。浴場は洗い場とすこし熱めのお風呂。水風呂にサウナもある。レトロチック気分に浸れるけれどちょっと老朽化しているのが気になるところ。立地条件がいいので深夜バスで京都に観光に来るひとや帰ってくるひとに人気があるそうです。◆データ京都タワービル地下三階大人750円子供450円営業時間:午前七時~午後八時半(入場は八時まで)年中無休◆シャンプー&ボディソープあり◆露天風呂なし◆無料タオルあり◆横になれる休憩室なし◆ロッカー大◆サウナあり値段と泉質と施設の独断と偏見の総合評価は星☆☆でございます。
2005年03月26日
おいらの心の中にも 霧がかかっているよ(*^_^*)
2005年03月25日
とにかく笑えれば 最後に笑えれば情けない帰り道 はっはっはと笑えればウルフルズの「笑えれば」からの歌詞の一説。正義が勝つのには時間がかかるものです。でも権力=正義ですからっ残念!ウルフルズ/ULFULS
2005年03月24日
モナコと言っても地中海に面しているモナコ公国とは関係ない。国道24号線大久保田原交差点付近にあるパチンコ、ボーリング、ゲームセンター等のアミューズメント施設の総称が「モナコ」そこに温泉が出た。そんなことはない。ただの銭湯である。料金は500円とかなりリーズナブルであるがシャンプーやボディソープがなくタオルも置いてない。ワンコイン(500円)なのでいたしかたないところ。それでもサウナと露天風呂があるのでぎりぎりスーパー銭湯認定!!◆近鉄大久保駅から久御山方面バス◆シャンプー&ボディソープなし◆露天風呂なし◆無料タオルなし◆横になれる休憩室なし◆ロッカー普通値段と泉質と施設の独断と偏見の総合評価は星☆でございます。
2005年03月23日
こないだうちのコンビニにヤクザが来たんだよ。 レジ打ちするとき、会計が893円でおもいっきし笑っちった。 そのヤクザはメチャクチャ俺のこと睨みながら1003円出したんだけど、 そしたらお釣りが110円でさらに爆笑
2005年03月22日
◆源頼政公の墓◆"鵺退治""歌人"として有名な源頼政。1180年 治承4年5月 以仁王の乱平清盛の横暴に憤り、源頼政は後白河天皇の皇子以仁王から打倒平家の令旨をうけ、5月挙兵したが、平知盛の平家軍2万に破れ、以仁王・頼政の長男仲綱らが討死、頼政は平等院で自害した。現在、頼政公の墓が、宇治平等院内にある。毎年5月26日は頼政忌。◆宇治川先陣の碑◆義経の初陣、宇治公園橘島1184年 寿永3年1月 宇治川の戦い源義経軍・源範頼軍は宇治方面より京都へ攻めが、宇治川(宇治市)で木曽義仲軍を敗る。木曽義仲は近江国(滋賀県)粟津で討たれる。佐々木高綱と梶原景季が宇治川の先陣を競った。
2005年03月21日
母「おい、おまいら!!父の給料出ますた。リビングに集合しる!」父「詳細キホ゛ーヌ」母「今日は京ポン購入についてですが、何か?」兄「京ポンキターーーーーーーーー」妹「キターーーーーーーーーー」姉「ピッチごときで騒ぐ奴は逝ってヨシ」母「オマエモナー」父 --------終了-------兄 --------再開-------妹「再開すなDQNが!それより京ポンうpキボンヌ」母「WIN定額うp」姉「↑誤爆?」兄「ト゛キュモ定額age」父「ほらよ京ポン>家族」妹「神降臨!!」兄「ト゛キュモ定額age」母「糞ト゛キュモ定額ageんな!sageろ」兄「ト゛キュモ定額age」姉「ト゛キュモ定額age厨uzeeeeeeeeeeee!!」母「ageって言ってればあがると思ってるヤシはDQN」セールスマン「イタイ家族がいるのはこの家ですか?」母「氏ね」父「むしろゐキロ」兄「ト゛キュモ定額age」妹「兄 、 必 死 だ な ( 藁 」
2005年03月18日
WILLCOMが音声定額プランを発表。月額2900円のみで、WILLCOM端末同士の通話が定額、Eメール利用も定額となる。WILLCOMはPHSを使った音声定額サービスを5月1日から提供することを発表した。料金は月額2900円で、1年契約が前提となる。長期割引などの各種割引は利用できない。WILLCOM電話機同士の音声通話および直送メールが定額になるほか、Eメールの送受信も定額に含まれる。合わせて携帯電話への通話料金も改定し、従来の30秒21円から、30秒13.125円とする。想像したより安い!!WILLCOMユーザーの方、5月になったらTEL番交換して話しまくりませう。WILLCOMがんばれ~($・・)/~~~
2005年03月15日
コメント(3)
まずはフロントで入浴方法についての説明をうける!体を洗う→白湯→薬草茶を飲む→薬草サウナ→薬湯に5、6分つかる→これを3セット繰り返す。そして男性は急所を押さえて入浴してください!とのこと。急所ねぇ~と思いながらエレベータで2階に行き、いざ入浴。漢方や薬草の匂いはそれほど感じない。体を洗っていると異変が起こる。周期的に鼻がむずむずして、くしゃみをしてしまう。まわりのひともくしゃみをしていた。白湯に入る。いたって普通の湯なのだがまずはお湯に慣れろということらしい。薬草茶を飲み、薬草サウナに入る。シャワーで汗を洗い流して、いよいよ薬湯へ指示どおり、急所を押さえながら御入湯。ややぬるめの湯だが、しばらくすると額から汗が出てくる。そして急所がひりひりしてきた。これが漢方のチカラかぁ!と思っていたら、我慢できないほど痛くなってきた。逃げるように薬草から脱出。すぐにシャワーで洗うが、余計痛くなる。男性は危険です。弱っている部分や悪い部分は薬草につかっていると痛くなるらしいが弱っているのw!?あとは同じコースをたどるが薬草には足湯にし、全身浴は軽めにしておいた。この日は、負傷してひきずっていた足が帰るときには普通に歩けるようになっていた。あらためて中国四千年の漢方のちからを感じ、京都に帰るが冷えてきたのかまた足が痛くなってきた。また行こうっと!◆データ近鉄上本町駅下車徒歩約6分 または鶴橋駅下車徒歩約7分 大阪市営地下鉄鶴橋駅下車徒歩約7分 または谷町九丁目駅下車徒歩約9分※鶴橋駅、谷町九丁目駅から無料送迎バスあり 大人(中学生以上)2,100円小人(小学生)840円10:00~22:00無休 ※12/30、31、1/1休効能:疲労回復、冷え性、花粉症、虚弱体質、血行障害、風邪のひきはじめ、肩こり、更年期障害、肌荒れ、腰痛、内臓疾患、アトピー性皮膚炎、ぎっくり腰、肝炎、美肌、関節痛、肝臓病、水虫、神経痛、糖尿病、巻き爪、リウマチ、便秘症、日焼け、打ち身、不眠、火傷、くじき、痔◆シャンプー&ボディソープあり◆露天風呂なし◆無料タオルあり◆横になれる休憩室あり◆ロッカー普通値段と泉質と施設の独断と偏見の総合評価は星☆☆☆☆☆でございます。
2005年03月13日
教科書に落書きした少女の短い歌は少年が鞄につめた夢と同じTM NETWORKの『HUMAN SYSTEM』からの歌詞の一節。そして少女は軽薄な男に言い寄られて断りきれずに付き合ってしまうのだろう少年はそんな軽薄な男と付き合った少女に愛想をつかす。でも心の奥では少女への想いは消えない。少年にも彼女ができるけど時間が経てば経つほど、少年と少女の想いはひとつなのだろう。誰かまわりのヤツが教えてやれよっと言いたい。他人の不幸は蜜の味。それが『HUMAN SYSTEM』恐るべしTM NETWORK/TMN BEST
2005年03月12日
1052年に「極楽浄土をこの世に再現する」というコンセプトのもと藤原頼通によってプロデュースされた。平等院鳳凰堂は鳳凰が羽ばたく姿を模して造られました(10円玉)屋根には鳳凰が羽根を休め、現世をいつまでもやさしく見守っている(新壱万円札)中国より伝承された鳳凰は伝説の不死鳥で古代エジプトの「フェニックス」と同じ解釈とされる。炎の中より生まれ500年の寿命を終えると炎の中に身を投じまた炎の中よりよみがえる。(再生)その姿を見たもの幸福が訪れるとされる。手塚治虫がライフワークにした「火の鳥」火の鳥の生き血を飲むと永遠の命(不老不死)を得られる。時の権力者たちが唯一手に入れられなかったもの。それは寿命。火の鳥を捕獲して永遠の命を欲するが作品中では権力者が手に入れることはなかった。また永遠の命を手に入れるものが現れるがそれは同時に永遠の苦しみを味わうことになり火の鳥に死を乞うのである。千年前に宇治の地に舞い降りた"火の鳥"を見に来てくださいね♪◆拝観日 年中無休 ◆拝観時間 入園 3月~11月 午前8:30~午後5:30 (入園受付 15分前まで) 12月~2月 午前9:00~午後4:30 (入園受付 15分前まで) 平等院ミュージアム鳳翔館 3月~11月 開館午前9:00~閉館午後5:00 (午後4:45受付終了) 12月~2月 開館午前9:00~閉館午後4:00 (午後3:45受付終了) ◆拝観料 入園 +鳳翔館(平等院ミュージアム) 大 人 600円 中高生 500円 小学生 300円 世界文化遺産平等院オフィシャルホームページかおり風景100選平等院表参道のホームページ
2005年03月11日
一郎と二郎と三郎が海で遭難して無人島に漂着した。3人は島から容易には脱出出来ないことに気付き、生きていくのに必要な物を探しに各自島を探索しに行った。3人はそれぞれ食料になりそうな植物や狩りに使えそうな道具を持ち寄った。その際、長男一郎は古ぼけたランプも見つけてきた。汚いランプを拭いていると、突然ランプから煙が出てきて見る間に魔神の姿になった。ランプの魔神は低い声でこう言った。「お前達の願いを一人一つだけ叶えてやろう。ただし同じ願いは許さん。言ったらそいつを食う。」一郎はとっさにこう言った。「家に帰りたい!」びゅ~ん!!一郎は家まで飛んでいった。二郎も家に帰りたかったが同じ願いは言えない。そして少し考えてこう言った。「家の風呂に入りたい」びゅ~ん!!二郎は家の風呂まで飛んでいった。最後に残された三郎も家に帰りたかったがやっぱり同じ願いは言えない。少し考えてこう言った。「二人に会いたい!」びゅ~ん!!一郎と二郎が戻ってきた。
2005年03月10日
真実はどこに… 昭和19年 祖父はフィリピンにいました。 私と同じ23歳の祖父です。 フィリピンは日米の戦争に巻き込まれていました。 連日、海にはアメリカ艦隊の大群が押し寄せたそうです。 ミッドウェー海戦以降の日本軍は大東亜戦争初期の勢いは無く、 豊富な物資と強大な工業力をもつ米軍に徐々に追い詰められていきました。 そんな中昭和19年6月15日、 本土防衛の為の重要拠点であったサイパン島が米軍に攻略された。 これによりB29による本土爆撃が可能となった。 フィリピンは日本と南方の石油をつなぐ戦略的な要所であり、米軍が獲得に動いた。 フィリピンを守る第一航空艦隊の当時の戦力は零戦約40機しかなかった。 これだけの戦力では通常の作戦ではどうしようもないということは明らかと思われた。 大西中将は遂に 「零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、 確実な攻撃法はないと思うがどんなものだろう?」 と体当たり攻撃を部下達に提案した。 この時、全員が両手を上げてこの作戦に賛成した。 当時の戦況、そして搭乗員の士気というのはそのようなものであった。 神風特別攻撃隊の編成 攻撃隊が結成された翌日 戦闘機の整備兵をやっていた祖父に 特別攻撃隊の友人が語った言葉です。 『もう戦争は続けるべきではない』 しかし、敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。 アメリカを本土に迎えた場合、恐ろしい国である。 歴史に見るインデアンやハワイ民族のように闘魂のある者は次々各個撃破され、 日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。 このためにも特攻を行ってでもフィリピンを最後の戦場にしなければならない。 しかしこれは、九分九厘成功の見込みはない、 では何故見込みのないのにこのような強行をするのか。 ここに信じてよいことがある。 いなかなる形の講和になろうとも 日本民族が将に亡びんとする時に当たって 身をもってこれを防いだ若者たちがいた という歴史の残る限り 五百年後、千年後の世に必ずや 日本民族は再興するであろう。 大空に雲は行き雲は流れり すべての人よさらば 後を頼む 征って参ります 人は一度は死するもの 微笑んで征きます 出撃の日も そして永遠に イッテマイリマス ノチノニホンニエイコウアレ 私が高校生の時、祖父とフィリピンに行きました。 「神風特別攻撃隊」をはじめ戦没者の慰霊祭に参加するためにです。 フィリピンの方々が日本国旗を振ってくれました。 東南アジアの国々から常に 戦争の責任を追及されていると思い込んでいた私は驚きました。 神風特攻隊は戦後の日本では“戦争の悲劇” の代名詞としてしか語られていません。 しかしフィリピンでは捉え方がまったく違っていました。 式でフィリピンの方のスピーチです。 当時、白人は有色人種を見下していました。 これに対して日本は、世界のあらゆる人種が 平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。 神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する 力による最後の“抵抗”だったといえましょう。 そして、アジア内で唯一、抵抗してくれたのです。 かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。 立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。 これは日本が統治下で施した“教育”の成果です。 ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、 自分たちでモノを作ることを学ばせてもらえなかった。 人々は鉛筆すら作ることができなかったのです。 アメリカが自分達の作ったものを 一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした。 フィリピン人は日本で伝えられているような “反日”などではなく、むしろ親日的です。 フィリピンの人々は戦争に対しては日本人よりもリアリストです。 戦争があれば多少なりとも悲劇はあると、現実的な考え方をしています。 ですからフィリピンの人々は日本を責めようなどとは思っていません。 フィリピン国歌にも 「誉れ高い英雄達の生まれた国を崇めよ」 という一節があるくらいです。 欧米人のアジア観に多大な影響を与えた 神風特攻隊は、フィリピンの人々に敬われ そしてその勇気が称賛されいてる。 日本人はこうした現実も認識する必要があります。 今、自由に発言できること ご飯を食べられること、感謝しましょう。 そして日本人が日本を好きになってほしい。 じいちゃんは小さい肩を震わせて泣いていました。 私は一つ、真実を知ることが出来ました。 END
2005年03月09日
day after tomorrowの" Starry Heavens"からの歌詞の一説。何を約束したのだろう?お土産買ってきてとかか…僕は旅に出る前は部屋の大掃除をするので、旅の準備とダブルで大忙しです。見られてはいけないものは処分して貯金通帳などはすぐにわかるような場所にかためて置いておきます。ある意味旅に出るときは、とりあえず4を覚悟してみまつ。(飛行機墜落や暴力団の抗争で流れ弾に当たる、拉致される等の妄想のため)そして不安にかられ泣く泣く旅に出るのである。~旅立つ君と交わした約束~「生きて必ず戻ってくる。」と、言っても誰も相手にはしてくれない。さみしく一人、旅立つのである。誰にも見送られることもなく。見慣れたこの街を何度も振り返る。まぶたの奥に焼きつけるために…。 primary colors /day after tomorrow
2005年03月08日
1 F東京102新 潟 ×12 横浜M102磐 田 ×23 G大阪102大 宮 ×2 4 浦 和102鹿 島 ×25 清 水102広 島 ○06 名古屋102千 葉 ×07 大 分102東京V ○28 柏 102川 崎 ○09 神 戸102C大阪 ○110仙 台102徳 島 ×211草 津102山 形 ○212甲 府102札 幌 ○013鳥 栖102福 岡 ○07勝6敗惨敗(-_-;)にしても、ホームチームはもっと頑張らないと。。。ホームチームが勝ったのは13試合中、F東京と神戸の2試合のみ。審判もホームよりのレフリングしてホームサポーターもブーイングしまくりでヨーロッパのリーグのようにホームチームが勝つ仕組みにしないとtotoは盛り上がらない。優勝候補と呼ばれているチーム(横浜M、浦和、G大阪)も開幕でホームなんやからちゃんと勝たないと試合内容は押していたけど残念な結果。
2005年03月07日
南京駅に着く。ここから南京大虐殺記念館(中国語名は南京同胞不難記念館)にタクシーで向かうことにした。タクシー乗り場からタクシーに乗り込む。「ハロー」と挨拶し、自分が外国人であることを印象づける。蘇州の書店で買った地図を見せ、目的地を指さすと、運転手はわかってくれた。目的地の場所が場所だけに、自分が日本人であることを悟られないようにしないといけない。ここは中国でも反日感情の強い都市なのである。タクシーの中ではラジオが流れている。このまま沈黙のままで目的地に着くことを願っていたが、見るからに話し好きなそうな感じがする運転手は、さっきから何か話しかけたそうなそぶりをみせていた。彼は英語で話しかけようか迷っていたのか、車がだいぶん走ったところで、「ニーシーナーグオレンあなたは何処の人ですか?」とNHKの中国語講座のスキッドにもでてきた北京語で話しかけてきた。僕は中国語を話せないが、運転手がゆっくり発音よく話してくれたおかげで、聞き取れることができた。あらかじめ答えは、用意していた。「ウォーシーハングオレン私は韓国人です」すると僕の北京語が通じたのか、「コレア、コレア」と運転手は上機嫌だ。ここでもし日本人だと答えていたらどうなっていただろう?もし日本語で書かれた地図を見せていたら?このあとは会話がないまま、無事に目的地に着くことができた。南京大虐殺記念館に足を踏み入れる。
2005年03月06日
毎年、夏、冬、春の期間限定でJR各社より「青春18切符」というものを販売している。「青春」や「18」なる単語があるものの年齢制限はない。販売価格11,500円。5枚綴りになっており1回当たり2,300円。1人で5回使っても良し、5人で1回使っても良い。使用方法は始発駅で検印を受け、そのあとなら同日に限り在来線が乗り放題。もちろん何度、途中下車してもかまわないのである。関西圏なら豊富な快速が走っているので日帰りの小旅行も実現可能です。長浜から姫路を走る「新快速」が本数、速さとも最強である。そのほか「やまと路快速」「みやこ路快速」「関空快速」「阪和快速」「湖西線快速」「丹波路快速」「学研都市線快速」などなど普段は通勤に使われる列車を乗り継いでいけば、かなり時間を短縮できます。夏季限定ながら指定席料金500円を払えば乗れる「きのくにシーサイド」ならゴージャスな特急感覚で天王寺から白浜まで行けます。東京や九州、四国などにも深夜発ながら18切符+指定500円で行けます。快適度はどうかと思いますが、たくさんのお仲間ができることでしょう。東海圏にも快速は走ってますので、たったの2,300円で富士山を見て日帰りで帰ってくるというのも実現可能です。使用期間(例年)夏季 7月20日~9月10日冬季 12月10日~1月20日春季 3月1日~4月10日使用期間内に使いきりましょう♪使えなければ早めに金券ショップへGO!!シーズンを越えて使用できません。みんなで「青春18切符」使って、車の排気ガス量が減ればいいですね(^^♪JR西日本おでかけネット
2005年03月05日
しばらくやっていなかったけど開幕記念toto参戦!!1 F東京102新 潟2 横浜M102磐 田3 G大阪102大 宮4 浦 和102鹿 島 5 清 水102広 島6 名古屋102千 葉7 大 分102東京V8 柏 102川 崎9 神 戸102C大阪10仙 台102徳 島11草 津102山 形12甲 府102札 幌13鳥 栖102福 岡ダブル4個の1,600円一億円ゲットだぜ!
2005年03月04日
ある船に火災が発生した。船長は、乗客をスムーズに海へ飛び込ませるために、 イギリス人には 「紳士はこういうときに飛び込むものです」 ドイツ人には 「規則では海に飛び込むことになっています」 イタリア人には 「さっき美女が飛び込みました」 アメリカ人には 「海に飛び込んだらヒーローになれますよ」 インド人には 「沐浴の時間です」 ロシア人には 「ウオッカのビンが流されてしまいました、今追えば間に合います」 オーストラリア人には 「コアラが溺れました!」 フランス人には 「海には飛び込まないで下さい」 ポリネシア人…は、黙ってても飛び込む。「ヒャッホーーッ!」 日本人には 「みんなもう飛び込みましたよ」 中国人には 「おいしそうな魚が泳いでますよ」 北朝鮮人には 「今が亡命のチャンスです!」 大阪人には 「阪神が優勝しましたよ!!!」 船員「船長!まだ韓国人が残っていますが!」 船長「ほっておけ。」 船員「なぜですか!」 船長「生き残られると迷惑だ。『服が濡れた』と賠償請求されてしまう。」
2005年03月03日
宇治川さくらまつり前売り券の発売開始↓宇治市制だよりから抜粋宇治川さくらまつりの前売り券を本日から発売します。当日は抹茶席(野点)、花見茶そばコーナー、宇治川春の市炭山陶器まつりや特設ショー(歌、踊り)などを予定。●とき…4月2日(土)・3日(日)、午前10時~午後4時(雨天決行)●ところ…府立宇治公園中の島●前売り券…1000円(税込)。抹茶券席・花見茶そば券・市3施設共通入場割引券(市営茶室対鳳庵、宇治市植物公園、源氏物語ミュージアムのいずれか1施設)伝統工芸名陶抽選券・炭山ラッキープレゼント券付き●取扱所…観光センター、観光案内所(JR宇治駅前・近鉄大久保駅構内)、宇治商工会議所、京阪交通社各営業所、JTB(各支店・トラべランド)近畿日本ツーリスト各支店、日本旅行各支店、府観光連盟(京都駅ビル9階)ほか●問い合せ…宇治市観光協会まだまだ寒い日が続きますが春の便りを聞くとなんだかもう「スプリングカムヒア~」ですね!発音わる~(-_-;)寒っ!!
2005年03月01日
WILLCOMが音声通話定額サービス導入・月3000~4000円5月をメドに導入の予定だ。電話がかけ放題となるのは「WILLCOMの利用者同士」のみ。あまり意味がないなぁ。まわりにWILLCOM使っている人もいなくなったし法人向けのサービスでしょうな。もともと料金の安いPHS間の通話で基本料+定額4000円なら、あまり需要がないような…。たぶん今も生き残っているWILLCOMユーザーはデータ通信が中心だろうし、どんな用事でも定額のメールで済ませてそうな感じ。基本料込みの4000円ならかなり(・∀・)イイ!!! 長距離に家族や恋人がいるひとなら最強~!!!あっ、そんなひとはIP電話かな。(;つД`) 日経の記事には今後、各携帯会社も追随するだろうと締めくくられている。俺もそう思う。タダで端末配っているボーダあたりがなりふりかまわず追随してそのあとドコモとauが、WILLCOMの5月導入あたりに○年後には指定通話先のみ音声通話定額をします!とか発表して邪魔しにかかってくるんだろうwまぁ、どうでもいいけどてか、あのCMわかりにくいぞwwwWILLCOMがんばれ~($・・)/~~~
2005年02月27日
爆破して飛び散った心の破片を そこら中できらきら光っているけど いつの間に私はこんなに弱くなったのだろう鬼束ちひろの『infection』からの歌詞の一説。ひとって歳を重ねるごとに弱くなっていく生き物。子供の頃、大人はとても強い存在に見えた。それは見せかけの強さだと自分が大人と呼ばれるようになってから気づく。弱さを隠すために嘘を重ねて弱さを見透かされると怒りを露呈する。さみしいから何かに依存していないと生きていけない。誰かを蔑まないと存在を保てない。拒絶されたから孤独?孤独なのではなくそれは甘えているだけ 怯えているだけ愚かなだけあなたの心の叫びは 誰にも届かない。思い通りに生きられないからって 他人を傷つける?あなたがいなくても地球は回る。お金が欲しい?ひとよりいい生活ができてひとから羨ましがられて欲しいものは何でも手にいれて他人を犠牲にしてまで手にいれてそして最後もまた人のせいにするつもり?あなたの存在って何?自分が信じているものを否定されたら爆破するの?やられたらやり返す?負の連鎖を永遠に続ける?バラバラになった心の破片を集めている。誰も手伝ってくれないよ。だって自分でバラバラにしたんだから…ひとは弱い。でもその弱さを受け入れないといつまでも大人になれない。
2005年02月26日
温泉というよりスーパー銭湯の先駆けといった作りになってます。プールのような大浴場。広すぎて落ち着かない。泉質はぬるぬる感があるようなないような。美人の湯らしいです。近隣にあるマイナスイオンが出ている箕面の滝や箕面川と箕面昆虫館の放蝶温室とタガメがオススメ!もみじのてんぷらは食べる勇気がなかったなぁ。◆データ阪急箕面駅から徒歩3分泉質:炭酸水素塩泉(旧称:含食塩重曹ホウ酸泉)効能:適応症 神経衰弱、創傷、慢性婦人科疾患、神経痛 大人(高校生以上)1,300円小人(4歳~中学生)700円 ※17:00以降は夜間料金あり・正月期間は特別料金10:00~22:00(入館は21:00まで)、飲食11:00~19:00(LO18:30)無休◆シャンプー&ボディソープなし◆露天風呂なし◆無料タオルなし◆横になれる休憩室なし◆ロッカー普通(50円、100円)値段と泉質と施設の独断と偏見の総合評価は星☆でございます。
2005年02月25日
コメント(1)
「昭和の大合併」以来の合併ブームだが地域行政にとっての最大の狙いは、国からの合併支援補助金である。高齢少子化を向かえるなかで、税収に不安を抱える市町村にとってこの補助金はおいしいのである。それに合併効果も期待できる。面積が増えることで市内の交通などの行き来が活発になり少子化の現在では合併することで人口増加につながり政令指定都市も視野に望むこともできる。住人側のデメリットとして住所変更が面倒くさい。市町村民税が上がる(地域差によって)市役所まで遠くなるなどがあげられるがしかし十年後、百年後のことを考えればたいした軋轢があるわけでもない。2001年頃から宇城久地区、八幡市、京田辺市を中心に合併構想されてきたが、久御山町が、一町としても税収が豊富であり合併のメリットはないとして、いち早く不参加を表明。城陽市は、宇治市側の新市名は歴史のある「宇治市」であるのが当然という態度に嫌気がさし不参加を決める。そして合併協議会も解散する。これで合併も立ち消えになるかと思えたが2005年の年明けとともに市町村合併構想が再浮上する。宇治市、城陽市、久御山町、井手町、宇治田原町との5市町での合併を検討へ(2005/1月)
2005年02月23日