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カテゴリ:仕事・キャリア
31歳の誕生日に思う、ここ数年の自分の軌跡。
もともと、中小企業を営む家庭のひとり息子に生まれ、生まれながらに跡継ぎを期待されていたはずだった。でも、大学を出るときには、得意の英語を生かして、世界的な大きな仕事をしたいと思うようになっていた。プラス、「社会に貢献するのだ!特に、発展途上国の貧しい人たちの暮らしをよくする仕事がしたい!」という、今にしてみれば根拠のわからない、青くさい思い込みがあって、入社したのは希望通りの大手重工業メーカーだった。 配属されたのも希望通りの輸出営業。担当地域は最初フィリピンとオセアニア、ついで中国、最後はアメリカと、4年半の在職中一貫して、あれほどやりたかったプラント輸出の仕事に携わることができた。英語を使った出張など日常茶飯事。でも、やはりというか、理想だったはずの仕事の、現実はそんなに甘くなかった。 大手重工業メーカーの顧客というのは、メーカーの技術がほしくて、技術を買っている人たちだ。だから、必然的に、顧客に感謝され、喜ばれるのは技術者だけであって、その横から揉み手をしながら請求書を差し出して、顧客と闘うのが僕の役回りだった。顧客から感謝されず、社内でもエンジニアから見下される、日陰者。さらに、専門外である機械の知識も要求される。もともと好きでもない、自分が作るわけでも使うわけでもない機械に、愛着などわくはずがない。かくも喜びの少ない仕事に、さらに圧倒的な仕事量、任せきりで助けてくれない上司。とどめは、いっぱいいっぱいの僕に反逆してくる最低の部下。これだけそろえば、うつ病を病むのに時間はかからなかった。 病気のおかげで会社を辞めることができたのだから、僕自身が未熟な価値観で職業選択を誤ったことを、無理やりにでもリセットできたという意味で、よかったのかもしれない。 うつ病にかかってからは、ほんとに苦しかった。入院して、強い薬もたっぷり飲んだ。副作用で食欲が増し、18kg太った。生き続けることがイヤになったことも一度や二度ではない。生まれて初めて知った、すさまじい苦しみだった。 再起の契機になったのは父親の一言だった。 「カネ出してやるから、勉強しなおせ。」 この一言がなかったら、今でも鬱で苦しんでいたかもしれないなあ。 「そうか!勉強するっていいな!そういう未来があるんだ!」 そう思ったから、すごく意欲的に治療に励んで、あちこち良い医者を探して訪ね歩いたり、隣町まで新幹線で漢方薬をもらいに行ったり、っていうエネルギーがわいた。その結果、一時的にせよ症状が軽減して、半年だけだったけど、望みの大学院に通うことができた。学校生活はきつかったけど、素晴らしいものでもあった。ほんとに、よかったよ。 そこから先のことは、すべてこのブログに書いてあるわけだけど、入試に受かってから、通うことができるようになるまでに二年休学していたから、半年通って、あまりのハードさに病気が再燃したとき、残された選択肢は、残念ながら退学しかなかった。 せっかく出会った素晴らしい学校を退学したときは、この世の終わりみたいに悲しかった。家業を手伝うのもイヤイヤ始めたことだった。だけど、両親があたたかく受け入れてくれ、短時間労働から始めてリハビリを重ねることで、僕の病状はみるみるうちに良くなっていった。最近では、調子が悪く鬱っぽくなっても、3日くらい寝ていれば浮上できるようになった。両親には心から感謝しないといけないと思う。 今は、家業の手伝い半分、放送大学での勉強半分。家業を舞台にした研究にもすでに着手した。無理なく楽しく稼いで学ぶ今の暮らしは最高だ。20代後半は病気のせいで真っ暗だったけど、そこでの苦労を経て、30代最初の一年はすごく良いものになった。支えてくれている周りの人たちに感謝したい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005年12月05日 18時17分52秒
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