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カテゴリ:学び
はじめて、5000字の文章を書いてみました。 中学生の頃の口癖だった。友人とおもしろいことを求めて遊んでいたことを思い出す。 最後に行き着く場所はゲームセンターだった。 当時、流行っていたインベーダーゲームに多少のおもしろさを感じてはいたものの、
おもしろいことって何なのだろう! 私はお笑いの町、大阪で生まれ育った。 今なら自信をもってお笑いと答えることができる。 大阪人は皆、胸を張って言える答えでもある。 笑うこと=おもしろいこと。という固定観念が染みついているため仕方がない。 他府県の方から大阪人はおもしろいと思われている所以はそこにある。 とは言うものの、私は人を笑わせることは得意ではない。むしろ笑って楽しむ方だ。 おもしろいの感じ方は、人それぞれ違う。だからおもしろいのではないか!
人はどのような時におもしろいと感じるのだろう。 おもしろいという言葉の定義を具体的に考えたことはない。 おもしろいに結びつく言葉として私が1番に思いつくのは、前述の通りにお笑いである。 お笑い以外には、どのようなことがあるか。 めずらしいこと。 恥ずかしいこと。 変わっていること。 楽しいこと。 悲しいこと。 難しいこと。 困難なこと。 苦しいこと。 失敗したこと。 他人のこと。 想定外のこと。 これらのすべてに共通することは、興味が湧き感情が動くことだ。 逆におもしろくないことは、 興味のないこと。 不愉快なこと。 変化のないこと。 想定内のこと。 いずれにしても、興味がなければ、おもしろさを感じられない。 興味を持ち、注目することで感情の動きが生じるのである。
私たち大阪人は、無意識にボケとつっこみを使って話している。 大阪弁の延長線上にあるものでもある。 その根底には、いつもおもしろいことを探して生活しているのである。 みんながみんなという訳にはいかないものの、意識が高い人は、 人を笑わせてやろう、おもしろいことをいってやろうとさえ考えている。 話す人は、笑いに対する興味が自然と身についているのだ。 聴く人も大変である。間違うと叱られる。 今、つっこむところやろ! ボケてどないすんねん! ここ笑うところやろ! まだまだやなぁ~! 独特の日常会話が毎日をおもしろくしている
大阪のおばちゃんはなぜおもしろいのか? ヒョウ柄のシャツ。コテコテのなにわことば。安かった自慢。 自分はおもしろいと自負している。 服装、生活観、自分の存在。 他にはない独特の雰囲気は、大阪のおばちゃん像をつくっている。 大阪のおばちゃんに自分との違いやめずらしさ、 容姿や行動が滑稽に見えるからおもしろいのである。
日常生活の中では良いことばかりではない。悪いことも起こる。 つまづいて転んだ。階段から落ちた。怪我をした時。 自転車でぶつかった。財布を落とした。 トラブルが発生した時に災難に見舞われることもある。 失敗談だ。 普通なら恥ずかしさや悲しさで落ち込む。人には話さない。 これらを、平気に話して、笑いに変えるのも大阪人の特徴。 普通ではないからこそおもしろい。
真面目に考えるときもある。 ママさんバレーボール部に所属していたとしよう。 大阪のママさんバレーボールは盛んで、各地域でチームを持ち、 初心者から経験者まで多くの大人が楽しんでいる。 地域の対抗戦も行なわれている。 試合になるとうまくいかないと落ち込む。 私のミスで負けたりした場合、難しさや苦しさを感じる。 このような状況でも笑いに変えることができるとおもしろい。 一方、奥が深くて難しいと真面目に考えることもある。 自分で自分を納得させるのである。こういった場面でも感情は動く。 気持ちを次への挑戦に向けることができれば、 おもしろさにつながるのである。
人のうわさ話もおもしろい。罪のない範囲でネタにする。 うわさなので、本当かどうかはわからない。 聞き手は本当の話であると思って、あらゆる想像をしながら聞く。 最近、おもしろいニュースはなかった?という合言葉で話がはじまる。 AさんとBさんがつきあっているらしよ! CさんとDさんが結婚するらしいよ! 相手はどこの人。 どうやってであったの? どれくらいつきあっているの? 何をやっている人? 人のことなのに気になる質問を連発する。 知っている人の話であれば、興味が湧いてくるからだ。 興味が高まる。だからおもしろい。 放っておいたれよ! と突っ込みたくもなる。
高齢でおぼつかないおじいちゃんの話。 東大阪市にとある神社がある。その神社に通じる山道がある。 出店が立ち並び、参拝客は食べ歩きやお買い物、散策を楽しんでいる。 私も時々足を運ぶことがある。 おじいちゃんがそこに行きたいと言い出した。 高齢のため、行ってもその山道が歩けるのかどうかが心配された。 本人は、大丈夫と自身満々に笑顔で答えた。 おばあちゃんと考えた結果つれていくことになった。 車の乗り降りは難なくこなし、参拝を終えた。 いよいよ、山道の散歩である。 登坂は、右や左にカーブを繰り返しながら、最終まで500メートルほど続く。 手をつなぎながら、一歩一歩休憩を交えてあるいていく。 久しぶりの外出にとても楽しそうだった。 100メートルほどあるいたところで休憩が入る。 そして、また歩き出す。その後は、10メートルほど歩いては止まり、 歩いては止まりの繰り返し。 大丈夫か? もう引き返そうか? 大丈夫、大丈夫。相変わらず笑顔は変わらない。 そして、また進もうとする。 つないでいた手は、心配から肩を貸したくなってきた。 もう引き返そう! まだ半分も進んでいないものの、困難を察知して提案した。 「おう。引き返そう。もう無理や!」と笑顔で答えた。 おじいちゃんは引き返そうと言われたことが嬉しそうだった。 だからいっただろう! という落ちは笑いを誘った。 おばあちゃんも笑顔でいっぱいでした。 今歩んできた登坂を戻らなければならないという困難を前にしてでもある。 何を隠そう。おじいちゃん、おばあちゃんは私の両親である。 想定内の出来事であったが、おじいちゃんの行動がおもしろい。 この場所に来ることができたという満足感もにじみ出ていた。 これから、連れて帰らなければいけないという困難に立ち向かう私とおばあちゃんは楽しい。 おじいちゃんの喜んでいる姿に興味があるからだ。 この大変だったお話は、最後におじいちゃんと外出した最後の思い出。 身内の間では、おもしろかったお話として心に残っている。
人を褒めるときもおもしろい。他人を褒めて笑わせる。持ち上げる。 褒める話は、人に興味を持たせるので聞いてもらいやすい。 反対に悪口もそうだ。ネタがないとき、悪口は最強の武器にする。 良くないこととわかっていながらも、人の悪口は大変盛り上がる。 他人の恥を笑う。 当然にトラブルにならない、罪のないゆるされる範囲でであることが言うまでもない。
おもしろいと思うことは、人に限られたことではない。 体験、もの、ペットの動きや経験により、感情の動きから得られるものもある。 テーマパークに行くと一番スリルがあるのはジェットコースター。 初めて乗るときの感情は、怖そう。気分が悪くなりそうという心配も起きる。 乗りたくないのが普通だろう。 ところが、一度乗ってからの経験は大きい。 頭の中が書き換えられるからだ。 この時に悪い印象を持った者は、その悪い印象がインストールされる。 楽しい。ワクワクした。 好印象を持った者は、ジェットコースターはおもしろいものとしてインストールされるのである。 一度、インストールされるとよほどのことが無い限り、書き変わることは少ない。 だから、遊びにいこうとなったときには、おもしろい体験を求めて、テーマパークを選ぶのはそのためである。
おもしろいの感じ方は心の持ちよう。気分でも変わるものである。 気持ちに余裕をもって、おもしろいを受け入れるという気持ちをもってみれば、おもしろくないできごとであったとしてもおもしろくなりうるものである。おもしろさを探し、楽しむと決めて、取り組むことと似ている。 笑おうと思えば笑えるし、楽しもうと思えれば楽しめる。 そういうものではないか! ところが、冷めた感情で興味のないことでもおもしろいことが起こることがある。認知することである。 認知からくるおもしろさは半端ではない。 突拍子もない出来事が飛び込んできた時、興味がなくても、想定外の出来事を認知する。 一番わかりやすいのは、鼻毛が出ている! ズボンのチャックが開いている! シャツが反対である! など 教えてあげたくても、教えることができない場面であると笑いをこらえるのは大変である。 他にも、些細な人の失敗。失敗の繰り返し。内緒の話。 隠していたことがバレてしまうのもおもしろい。 おもしろいと感じることは、興味の他に、認知でも起こることがわかった。 受け入れる気持ちが強ければ強いほどに、興味や認知の幅も広がるのである。
興味の度合いも重要になってくる。 興味を誘うできごとは、自分の中のあたりまえではないことや想定外のこと。 奇妙なできごとや楽しいと思えることで深まる。 心地よい内容であるかどうか。楽しいかどうか。めずらしいことであるかどうかが重要になる。 おもしろそうという意識が湧いてくるからである。 この意識はおもしろいに近づく最も大きな要素になる。 おもしろうそうという意識は、人の行動に結びつけることができる。 おもしろそうだからという理由は興味でもある。 何かに挑戦したり、購入したりもする。 おもしろそうな記事やタイトルの書物を見つけると読もうとする。 おもしろそうな映画を見つけると観たくなる。 おもしろそうな食べ物を見つけると食べたくなる。 おもしろそうという意識は興味であり、人の行動を誘う。 その行動を行なった結果、おもしろかったのか、おもしろくなかったかの結果につながる。 だから、おもしろいと感じるためには行動すること。心の動きが必須なのである。
結果おもしろかったか、おもしろくなかったか。 興味が整い、まったく同じ条件で、行動にまで結びついたにもかかわらず、 結果がわかれるのが常である。 この結果のわかれ道は、どのような要因によるものだろうか。 自分の中のあたりまえという考え方が関係している。 思っていた通り。予想通り。変化のない出来事は、無意識に流れ、行なわれていくため感度は低い。 ところが、思わぬ出来事。予想外の展開。大きな変化が起こると、感度が高くなるのだ。
具体的には、奇跡の大逆転はまさにそうだ! おもしろい! もっとも番狂わせの少ないスポーツと言われているラグビー。 ラグビーワールドカップ2015年大会。 日本が、過去2度の優勝を誇る強豪国南アフリカを相手に奇跡の逆転勝利をした。 この話題は、その結果によって世界中に広がった。日本の多くのファンにとっても、大会が開催されていること、試合があったことさえも知らなかったかも知れないほどに、注目度は低かった試合だ。 私自身もその一人である。この試合には、2つの想定外があったと分析する。 1つは、100パーセント勝てない相手という思い込み。もう1つは、逆転劇を生んだ最後のワンプレーだ。同点ゴールかトライを狙うかの判断。監督のサインに反して、トライを狙いに行ったこと。 さらには、この賭け事のような判断にも、後になっては注目される点である。 結果は、すべての想定外が覆され、奇跡の大金星を遂げた。 私は、ニュースで出来事を知り、全身に鳥肌がたった。 今となっては、ラグビーに興味がなかった人でも知っている話にまで広がった。 心が動いたのだ。 ありえないような話。考えられないような話であった。だからおもしろいのである。 この試合が、南アフリカに圧勝されていた場合。 ラストワンプレーで同点ゴールをしていた場合。 トライを奪えなかった場合。 どの結果であっても、おもしろさの感度は低調だったはずだ。 いや、ニュースにはなっていなかったとも推測される。 なっていたとしても、同点だったという話題に留まっていただろう。 同点であったとしても想定外の結果であったためでもある。 おもしろそうをおもしろいに変えるには、想定外のこと、あたりまえと思っていることを反対の結果に結びつけることが大きな効果になることがわかった。
おもしろいと感じることは、人によって違う。感じ方は感性である。 また感性は、心の状態によって変わる。今日と明日では、感じ方も変わるのだ。 興味をとらえて、また認知し、体験することがおもしろいにつながる結果となる。 体験する時間が長ければ長いほど、おもしろさによる感度も増す。 楽しいときでも苦しいときでも、しんどいときでも失敗したときでも 自分がおもしろいと思えばおもしろいし、おもしろくないと思えば、おもしろくない。 おもしろいこと探しを習慣化して、好奇心を旺盛にして生活している人は感性も豊かである。 些細なことも受け入れられる心の広さをもって人生を楽しんでいる。 感性の乏しい人は、おもしろいことがあっても見逃したり、受け入れる窓口も狭い。 耳を閉じているときもある。 おもしろいは感性だ! つまりは自分しだい。 感性が高ければ高いほど、おもしろいの感度も高く幸福度は増す。 広い心を持ち、受け入れる余裕を持とう!感性を高めよう! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年12月13日 06時23分00秒
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