「イーハトーボの劇列車」木野花さんの歌も聴けます
最初に観たのは上手の一番うしろ。今日は下手の前列。違った角度で見えてウレシイかぎり。自分の前の人中心に、またはその人の肩越しのみえる風景。全体を見ていた前回と違う芝居のよう。見切れもあるけれど、臨場感はこのうえなし。近くでみると、盆は傾斜がついている八百屋舞台というのかな。CATSの舞台見学の時に思いましたが、海賊船の傾斜はかなりキツイ。美しくかつ、わかりやすく見せるための演出とはいえ、役者さん怪我と背中合わせのところで熱演しているんだと改めて実感。時間になると、こまつ座の人が立って携帯など音の出る機器をお持ちの方、とお約束のご案内。いっせいに、彼女に注目するから、ここで、客席はおしゃべりをやめ、はじまるんだと、姿勢を正す。このハジマリ方いいな。ギリギリまで世間話でザワザワしていると雰囲気が壊れて嫌な時があるから。たとえば低く流れている音楽や、紗幕に描かれた景色、時代がかった調度品などを見て、これから始まるお芝居に集中したいと私は思っているし、演出家だってそこからお芝居の世界に誘いたいんだと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・盆に立った村人達が、歌舞伎の割台詞のように、みんなしてこのお芝居がどんなものかを説明していきます。(花巻の)人々は、ここで(都会にはない)素晴らしい人や食べ物と共にあり、この芝居は役にたつことばかりではないかもしれないし、よくわからないかもしれないけれど、長い旅の間のビスケットになると。花巻駅でアナウンスの車掌さんの「おちてください(降りてください)」や(青森出身の)木野花さんと(福岡出身の)井上君親子の達者な花巻弁にすっかり宮沢賢治の世界に引き込まれます。賢治の妹のトシが入院し、見舞うために上野行きの列車に乗る二人。進行方向へ背を向けた席の方がいいと賢治が話し始め、慣性の法則も持ちだした賢治の言葉をやんわり受け止めつつかわす木野花さんのとぼけたような、大真面目のようなどちらともつかない、いえ両方なのでしょうが、賢治とその母もそうだったのでしょうか、汽車の窓から顔を突っ込んでまでもお小言を繰り返す直球の父との対比がナイス!二人の隣に座る少女。人買いに買われて行くおぼこい少女。この女優さんが気になって仕方なかったのですが、新人さんでした。鹿野真央さん。「マー姉ちゃん」の頃の田中裕子さんみたい。聖女も悪女も天真爛漫な役も最近の人見知りだったり、偏屈な役まで幅広く演じられそうな。前回は気づかなかったけれど、今日の席は賢治や父が正面を向かって問いかける時舞台の端、ギリギリまで踏む込んでくるので前の席の人は、自分に向かって詰問されているような錯覚に陥るくらい。すごく近いです。上手が見づらいけれど、特別好きな役者さんが前に居ることが多いと見極めてから、リピート、ってのはアリかな。上からの照明(ラストの星空)は東京よりずっと寒く澄んだ花巻を感じさせましたけれど、後ろから観た時ほど、照明の良さは気づきませんでした。こまつ座のお芝居を見ていると、子どもの頃はよく使われていたけれど今は聞かなくなった言葉がたくさん出て来て懐かしい。アクセントやイントネーションがオカシナ俳優さんがいないのが(方言は好きですよ)気分イイです。賢治の父の台詞「口に糊をしている」「飯の種」「かっこうの善し悪し」なんかもそうで、糊はお粥の意味。お米が食べられないから、お水で増やしてお粥にしてお腹をいっぱいにする、ギリギリの生活のことです。「飯の種」もストレートだし、「カッコいい」の軽さでなく「かっこう」若い人と大人の使う言葉が通じなくなっている今。同じ媒体から共通の情報を得ていた昔。言葉の持つ意味が等しく伝わったのでしょうね。(回顧主義ではないですよ。新しい技術でどの世代も 暮らしやすくなればいいと思うから)辻萬長さんが言うことは、フツーの言葉でも耳に残りそうな気がします(^O^)小説もいいけれど、声にした時の響き方この心地よさは、舞台だからこそ得られる幸福感です。舞台の上。信仰について父と賢治が意見を戦わせ、審判を請われ、下宿のおかみさんである木野花さんが、勝ったと思う人の前にお手玉を一つ置きます。緊迫した場面なのに、フッと笑ってしまう。賢治のようにフワフワした軽い者には自分が重しが必要。それが役割だからと諄々と父は息子を諭します。前の場面では、賢治をこよなく愛する母にしか見えなかった木野花さんが賢治親子の前で、今度は他人の役をきっちり演じ分け、これっぽっちも母の面影を感じさせないのは、スゴイ女優さんだとつくづく…「星めぐりの歌」木野花さんのソロ。恥ずかしげでカワイイんだよ。オマケ みんな観てるはず♪の有名なCM木野花さんともたいまさこさん 起用した人スゴイなー。