1月21日 「茉優・翔」家庭菜園へお越しいただきましてありがとうございます。
塚原卜伝像をご案内いたします。
日々の暮らし No.11 鹿島神宮 3
御手洗の池 (みたらしのいけ) 古くからの禊ぎの場所
誰が入っても同じ深さの池と言い伝えられている。
一日400kl以上の清水が湧出し持ち帰ることも出来る。
10御手洗の池 posted by (C)オスン6757
御手洗の池の近くの茶店の「御手洗団子」がとっても美味しいです。
塚原卜伝の誕生の地
11塚原ト伝 posted by (C)オスン6757
塚原卜伝の像
塚原 卜伝(つかはら ぼくでん)は、日本の戦国時代の剣豪、兵法家。諱は高幹 (たかもと)。号は卜傳、朴伝とも。父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた。
12塚原ト伝像 posted by (C)オスン6757
塚原卜伝の生涯
1489年、鹿島大宿(大町)に、卜部(うらべ)職・吉川覚賢の[卜占(占いのこと)を職務とした神官]の次男として、高幹が生まれます。
5歳で塚原土佐守安幹の養子となり、安幹や、実父、松本備前守らに、鹿島中古流や香取神道流の剣術を学びます。
1505年、17歳にして、1回目の武者修行の旅に出発します。この時に、京都の清水寺付近で真剣勝負を行ったと言われています。
1518年、松本備前守の勧めで、鹿島神宮に千日参籠し、その結果、悟りを開いて、一の太刀の妙理を知り、独自の流派を編み出します。そして、卜部に伝えられた鹿島の剣を伝承する意味で、卜伝の号を名乗ります。
1523年、二回目の修行の旅。九州太宰府にまで足跡を残しています。実父の死を知り、1532~33年頃、鹿島に帰郷。塚原城を継ぎ、妻を娶るも、10年で死別してしまいます。
1556年、養子・彦四郎幹重を城主に据え、三度目の旅出。後の世で、剣聖と呼ばれるのもこの頃。しかし、彼は流派の名前を最後まで、決めませんでした。鹿島新刀流の名は、後に弟子が付けたものです。
この旅の間でに、足利義輝、足利義昭、細川藤孝、北畠具教、武田信玄等、数多くの武将を指南しました。1558年に、伊勢国の北畠具教に一の太刀という、人の和を作り出す最高の剣技を伝授し、戦乱の世を救おうとしたとされる。
1566年に鹿島に戻って、悠々自適な生活を楽しみ、卜伝百首などを著作し、弟子の松岡兵庫助に看取られて、1571年没す。生涯19回の真剣勝負で無敗だった言われています。
★ 昨年の10月よりBS時代劇で「塚原卜伝」が放映されていましたのでご覧になった
方もいらっしゃるのではないでしょうか。...