テーマ:心のかたち、人のかたち(951)
カテゴリ:エッセイ
今日帰りの車の中でぼんやりと考えていた。
「欲望」って心のどこから湧いてくるんだろう・・・? たとえばストレスに比例して大きくなるような気持ちもするし、 たくさんの情報があれば、それによっても膨らみそうだし、 一つの欲望を満たすとまた次の欲望へと限りがないような気もするし、 なんだろうって。 そもそも欲望というと、何かネガティブな香りがする。 名誉欲とか、金銭欲とか、性的欲求とか。。 もちろん愛する欲望とか、探求する欲望とか、前向きな言葉と くっつけることもできるけど、どうも、欲望っていうのは 人の本能的な部分から導かれているように思う。 その本能の根源は生きるということになると思うのだけれど、 実際に生きていくことと、その時の生を楽しむというのとで、 本能の目指すところにずれが生じてくる。 例えばタバコを吸いたいという欲求は、たとえ生を縮めるとしても 抑えることができない。 それは、生きる欲求が、長く生きるという欲求ではなく、今の快楽に 生きる意味を見出す、という生の長さよりも太さを求める方に頭の回路が 変更しているのではないか、と思う。 ギャンブル、金、酒、女、デザート、長電話、ゴシップ。。。 様々な目の前の欲望を人はそう簡単に抑えることができない。 つまり欲望とは今をより充実させて生きるという錯覚を起こさせる心なのか。 だからそこでしか得られない満足感とか、充実感とか、爽快感とか、そういうものを 求めるのは、生を充実させるための生きる本能から来ている。 そうすると、生の重みを実感できなくなればなるほど、短絡的欲望が強くなる。 そうやってしか生を感じられなくなってくるからだ。 けれど、短絡的欲望は、あっという間に消えてしまい、積み重なることがない。 それで、何度も繰り返すうちに肉体や、貯金がその犠牲になっていく。 最終的には究極の生を感じる方法は死、という結末もありえるのかもしれない。。 じゃあどうすればいいのか、この生への欲望は、肉体的な存続への執着というのに 近いと思います。生存を追及すると、いかに自分のDNAを生かし続け、つないで いくのか、ということになるのでしょうか。 それを、精神的な欲望に重心を置き換えていくと、精神を高めていくことの欲望が 生まれ、それを追求すると、受け継がれているだろう魂をどれだけ輝かせ、 今生きているこの生でなすべきことをやっていくのか、ということになるのかもしれません。 人は常に肉体と意識という2つのバランスに苦労しながら生きているんだと思います。 何かわからないけれど、自分がこの限られた肉体の寿命の中で、できることを精一杯やって、 出来る限り魂を磨いて、自分や周囲の人を輝かせることができたら、素敵なんだけどな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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