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カテゴリ:Mayuと乳がん
ボツになった『おっぱいの詩』PRエッセイを、前後編にわけて・・・
おっぱいと人生の本 大原 まゆ ある雪の日、カチンコチンに凍った道路を無謀にも春靴で走っていたら、 「あ、転ぶ!」 と思ったその時、私の身体はフワッと宙に浮かび、次の瞬間にはスッテーン! と尻もちをついていた。しまった、油断した! その晩、ベッドに横になると腰がズキン、ズキン、と痛み始めた。 「まさか、腰の骨に転移してるんじゃ……」 痛みを感じた瞬間、今はまだ考えたくない、いや、考えないようにしていた不安が頭を過ぎった。 それから二、三日後の朝、目覚めてみると腰の痛みがすっかりひいていた代わりに、お尻が青黒くなっていた。 「はぁ~……よかった、単に腰を強く打った痛みだったのだろう」 そう思って初めて、いつも以上に私の頭の中を支配していた“転移”の二文字が少しだけ薄れてくれた。 二〇〇三年の九月、当時二十一歳になってまだ二ヶ月しか経っていなかった私の身に突如降りかかってきた、重たすぎる現実。 私の右のおっぱいには、「乳がん」という病気が十年近い年月をかけて潜んでいたのだった。右胸にいびつな形をした大きな塊を見つけたあの時は、 「乳がんだけは有り得ない」 と即座に可能性を打ち消したのだが、念のため受けることにした乳がん検診のために初めて訪れた乳腺外科では、その日のうちに 「9割の確率で悪性」 と告げられた。 最初に胸のしこりにエコーをかけた時に先生が見せたあの複雑な表情は忘れられない。 次の日、私と家族に告げられた最終結果はやはり「乳がん」だった。それも、初期を通り越して2期だというばかりか、右の脇の下にあるリンパ節へも“ちゃっかり”転移していると言う。 要するに、乳がんとわかった時点で既にがん細胞が全身へと流れ始めてしまっているかもしれないということだった。 乳がんは、他にも骨、肺、肝臓などにも転移しやすいらしい。 「ちょっと、勘弁してよ……」 と思っても、やはりこれは私に与えられた現実でしかない。 そんな時、目の前で私と家族に向き合ってくれている先生が、まるで生き仏のように優しく丁寧に説明してくれたことが唯一の救いであっただろう。この先生と巡り会えたことは、私が“幸せ者”である一つの証拠だ。 二時間近くにも及んだ先生からの告知。 父と共に付き添いに来ていた母は、私の病名に加え「抗がん剤治療が必要です」という言葉を聞くと、静かに診察室を出て行った。母は、私より十二年も先に抗がん剤治療を経験し、今もなお“現役患者”なのだ。 母の病気は、乳がんとは病巣こそ違うが、私がこれから辿るであろう道は母が今まで通ってきた道を上からもう一度なぞるようなものになるだろう。 それぞれが、その病気を経験するには若すぎる年齢であったことが、母と私との大きな共通項かもしれない。 告知当時は「右の乳房は全て取ってしまうことになる可能性が高い」と言われていたのだが、手術用に撮った右胸の検査画像を見た先生は、 「これなら温存(乳房を残す手術法)で行ける!」 と言う。疑いをかける私や父の直球な質問にも、先生は嫌な顔一つせずに丁寧に答えてくれた。おかげで私の右のおっぱいは半分は残ることになったのだ。 最後に、 「二年は、頑張って治療しよう!」 そう約束した。 手術を終え、放射線治療のために再入院し、その後は数ヶ月間抗がん剤治療を受けた。同時進行で、乳がん発症や進行に密接な関係のある“女性ホルモン”を抑える薬も飲んでいる。 その薬のせいで一気に閉経後の女性の身体になってしまった私は、体重は増えるわ、眠れないわ、憂鬱になるわでエライ目に遭った。飲んで一年半を迎えるくらいからは、抗がん剤で抜けた髪の毛がある程度の復活を見せてきたのと同時に、そんな更年期症状も何とか受け入れられるだけの余裕が出来てきたのだが。 つづく 何だか、ちょっと疲れているのかサイトの整理とかしたいのにどーもうまいこといかない・・・(汗) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年03月08日 23時21分33秒
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