|
カテゴリ:Mayuと乳がん
インターネットで新聞社に投稿したメールがきっかけで週刊誌の取材を受けた後、今度は、こんな私が今までの人生をまとめた本を書く!? なんていうチャンスが訪れた。
確かに、読む人をこっちから限定してしまわない、色々な人に気軽に手に取ってもらえるような、専門書とも闘病記とも違うような本を書いてみたいという思いはいつからか胸の中にあった。 でも、いざそれが現実になりそうだといわれると、一気に足がすくんでしまった。 読書らしい読書は年に10冊も読むだろうかというレベルで、それでも乳がんになってやっと病気関連の書籍を買って読むようになった程度という私が、二百何十ページにも及ぶような本を書けるのだろうか。 文章を考えたり書くのは好きだったが、読書感想文や友人へのメールや手紙を書くくらいしか「物を書く」なんてことはしないで生きてきた。 しかも、ただでさえ二十一年しかない人生のうち、小・中・高校へ通ったなんてことは他のみんな誰だって同じような経験をしている。大学へは、二年も浪人しておきながら結局行けなかった。 そうして勤め出した職場は、勤務開始後半年で「乳がんになってしまったため」退職、というオチ。 ……果たして、こんな人生を本にして、面白いのだろうか? 患者としても、私よりもずっと大変な体験をしている方はいくらでもいるし……。 「本を書きたいなんて、あの日記者さんに軽はずみに言うんじゃなかった!」 と少し後悔したのも事実だった。 でも、私は自分がこの年齢で乳がんになったことには何か理由があるのだと感じていた。というのも、闘病生活の各過程で新しい環境に身を投じるたびに、この病気が縁で出会えた多くの方々の生き方に触れて学んだり、私たち患者を取り巻くさまざまな問題に自分自身が直面する機会が多々あったのだ。 そして、突然永遠の別れを知らされることもあった。 すぐ身近なところに「患者(母)」がいるにも関わらず、人生で初めて、私は人間の生き死にというものをリアルに意識して考えた。 その時私は、十二年目にして初めて本当の意味で「母の気持ち」に立って考えることができたのだろう。 相手の気持ちに立って考えるということは、自分では出来ているつもりでも、実際は家族でさえも難しいのだということを、私も、そして初めて「がん患者を家族に持つ」立場に立った母も、痛感したのだった。 そんな日々の中で、まだ新米患者でありながらもみんなに知ってもらいたいことや乳がん患者として主張したいことが少しずつ増えて来ていたのも事実だ。 加えて、がん患者を家族に持つ者とがん患者本人、両方の立場に立っている「自分だからこそ」という部分と、統計上0%しかいないとされる20歳前後の若年性乳がん患者としての“ぶっちゃけた”本音や意見。 これらが、あちこちで溢れすぎている情報の隙間を埋める何かになれたら…… そう考えた私は覚悟を決めて、私のおっぱいと人生の本、「おっぱいの詩」を書き始めたのだった。 両親は、とにかく私に「かわいそう」、「頑張って」という言葉をかけなかった。もちろん心配はされたが、病気と向き合う上であーしなさい、こーしなさいと言われたこともない。 でも、私が病気と向き合おうとしていた時、母は母のスタイルで病気と闘っていた。 そんな環境があったからこそ、私は自分の目で見たものを自分の心で見極め、病気と向き合うことができたのかもしれない。 そして今は、病気である自分を「自分」として受け入れることができ始めているのかもしれない。 この体験を通じて一つだけ言えるのは、乳がんになって「私」という人間はこんなにパワーアップできた! ということなのだ。 おわり 実際に採用になった原稿は、これとは全く内容の違うものになりました。 それもまたいつか掲載できたらいいなと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年03月09日 15時34分08秒
[Mayuと乳がん] カテゴリの最新記事
|
|