仏とは何か(感想)
ブッダはどんな存在でしょうか。 ”仏とは何か ”(2007年3月 講談社刊 立川 武蔵著)を読みました。 仏・菩薩と人間との関わりかたの具体的なプロセスを通じて仏の本質を説明しようとしています。 講義録「ブッディスト・セオロジー」の第三巻で、第一巻は「聖なるもの 俗なるもの」、第二巻は「マンダラという世界」でした。 第四巻は「空の実践」、第五巻は「ヨーガと浄土」です。 立川武蔵さんは、1942年名古屋生まれ、1964年名古屋大学文学部インド哲学専攻卒、1966年同大学院修士課程修了、1967年同博士課程中退、ハーバード大学大学院でPh.D取得、国立民族学博物館名誉教授、愛知学院大学文学部教授を歴任、専門は仏教学、インド学です。 初期仏教においてブッダはあくまで人々の師であり、人間以上のものではありませんでした。 大乗仏教においてブッダは、崇拝対象としての神的存在となりました。 神的存在となったブッダは、仏教徒ひとりひとりが精神的救済を求めようとする際、人が交わりを有し得る相手でもありました。 交わりあるいは対話が可能であるという意味において、阿弥陀仏、大日如来の大乗の仏たちは、ペルソナを備えた仏ということができます。 師としてのブッダから崇拝の対象であり救済者でもあるブッダヘの変容は、どのようにして起きたのでしょうか。 仏教徒たちはブッダの教説に従いつつ、時代の状況に呼応しながら仏教の思想や実践形態の創造的な展開をなしとげました。 大乗仏教において、それまでの仏教には見られなかったペルソナを備え、交わりが可能となる神的存在としてのブッダが生まれたのは、飛躍であったと考えられます。 この交わりの相手としての仏は、仏教史の中でどのように登場したのでしょうか。 宗教行為は、他の行為と同様に、世界認識、目的、手段の三要素を含んでいます。 第一要素である世界認識の到達点は、マンダラという世界でした。 仏のすがたの変容を扱うということは、マンダラという場に登場する語要素、つまり仏や菩薩などのすがたとその変容を考察することでもあります。 マンダラは、仏や菩薩たちと彼らが住む宮殿を描いていますが、その世界を成立させ維持してきたのは、その仏や菩薩たちに対する仏教徒の行為です。 仏・菩薩たちのすがたと彼らへの行為とを考察の対象としながら、仏とは何かという問題に関わります。 ここでは、行為の第二要素である目的を扱います。 仏教の実践・儀礼の目的は、悟りあるいは仏です。 ブッダはどのようなすがたでイメージされてきたのかを知り、その間、聖なるものとしての仏に対してどのような行為がなされてきたかを知ることは、仏とは何かを知る手がかりを知るための道程となります。 仏教における行為の目的・目標は、ホーマ=護摩やプージャー=供養などの宗教儀礼、涅槃のシンボル、世界=宇宙、ブッダの身体、立体マンダラの四つの意味をもつ仏塔や、仏像といった宗教シンボル、そしてバクティ=帰依等々の宗教行為と関連があります。 宗教行為には、個人の精神的至福を追い求める型の行為と、聖なるものと俗なるものとの区別を社会の中に位置づけることを目的としている集団的な行為との二種があります。 仏教は、基本的にはこの二つの型の内、個人の精神的至福を追究する型の宗教に属しますが、当初はそれほど重視されていなかった集団的宗教行為の要素をも、後世の仏教は多分に含むことになりました。 二種の宗教行為の統一は、特に密教において試みられました。 マンダラや護摩儀礼は、その二種の宗教行為の統一の成果の一端です。 宗教行為の発展は、時代の状況に対応しつつ仏教徒たちが行ってきた行為の結果に他なりません。 仏教の思想の変化の中でこそ、大乗仏教における救済のあり方は、より鮮明に理解できます。 それにしても、このような偉大な仏教が、発祥の地であるインドにおいて13世紀頃に滅亡したのはやはり驚きです。 ただし、零細な集団としてのインド仏教はかなりの期間にわたり存続しているようです。第1章 仏のすがた第2章 仏への行為第3章 ヴェーダ祭式ホーマ第4章 ブッダの涅槃第5章 仏塔の意味第6章 プージャー?宗教行為の基本型第7章 ジャータカ物語と仏の三身第8章 大乗の仏たち?阿弥陀と大日第9章 護摩?儀礼の内化第10章 浄土とマンダラ