津波とたたかった人―浜口梧陵伝(感想)
まだあの津波の記憶は生々しいですね。 浜口梧陵さんは、「稲むらの火」という話で知られています。 ”津波とたたかった人―浜口梧陵伝 ”(2005年8月 新日本出版社刊 戸石 四郎著)を読みました。 幕末に起きた安政大地震による巨大津波によって壊滅した紀州広村の復興と津波を防ぐ堤防の建設に立ち上がった醤油屋当主、浜口梧陵の生涯を紹介しています。 NHKでも取り上げられた梧陵の業績と生き方を史実にもとづいて検証し、今日的視点から再評価した伝記的読本です。 戸石四郎さんは、1929年生まれ、高校教師をへて著述業、日本科学者会議会員です。「稲村の火」とは稲束のことを言い、昭和12年から22年までの国定教科書、尋常小学校5年生用「小学国語読本巻十」「初等科国語六」に載っていた話です。 原典は小泉八雲の「生ける神」とのことです。 ある海辺の村を襲った大津波を庄屋の五兵衛がいち早く察知し、刈り取った大切な稲むらに火を放って村人に知らせ、おおぜいの命を救ったというものです。 五兵衛は浜口梧陵その人であり、紀州広村、現在の和歌山県広川町での実話だったといいます。 浜口梧陵は1820年に紀伊国広村、現・和歌山県有田郡広川町で、紀州湯浅の醤油商人である浜口分家・七右衛門の長男として生まれ、12歳で本家、濱口儀兵衛家の養子となって銚子に移りました。 浜口儀兵衛家は現在のヤマサ醤油当主で、浜口梧陵は七代目浜口儀兵衛を名乗りました。 梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則です。 若くして江戸に上って見聞を広め開国論者となり、海外留学を志願しましたが、開国直前の江戸幕府の受け容れるところとならず、30歳で帰郷して事業を行いました。 1852年に広村に稽古場、耐久舎、現在の和歌山県立耐久高等学校を開設して、後進の育成を図りました。 1854年頃、七代目浜口儀兵衛を相続しました。 そして、この年=安政元年12月23日に、先に安政の東海地震が発生しました。 マグニチュードは8.4でした。 その32時間後に、今度は安政の南海地震が発生しました。 マグニチュードは8.4でした。 災害の後、梧陵は破損した橋を修理するなど復旧につとめたほか、延べ人員56,736人、全長600m、幅20m、高さ5mの大防波堤を約4年かけて修造しました。 広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て梧陵が私財を投じたもので、後に小泉八雲は「生ける神=A Living God」と賞賛しています。 蘭医、関寛斎、勝海舟、福沢諭吉と交流があり、広い交友関係がありました。 1868年に、商人身分ながら異例の抜擢を受けて紀州藩勘定奉行に任命され、後に藩校教授や大参事を歴任するなど、藩政改革の中心に立って紀州藩、和歌山県経済の近代化に尽力しました。 1871年に、大久保利通の要請で初代駅逓頭、後の郵政大臣に就任しましたが、半年足らずで辞職しました。 1880年に、和歌山県の初代県議会議長に就任し、国会開設に備えて木国同友会を結成しました。 1885年に、世界旅行に行ったがアメリカ合衆国ニューヨークで病没しました。 堤防完成から88年後の1946年に広村を昭和南海地震の津波が襲ったとき、この堤防のために被害を減らすことができたといいます。 はじめに―浜口梧陵という人を知っていますか 一 幕末激浪のさなかに―「人となる道」を歩む 天下国家に目を開く/ペリー来航の衝撃 二「稲むらの火」の真実―津波とのたたかい 津波ドキュメント/防災百年の計にとりくむ 三「五兵衛話」と「稲むらの火」 ハーン(小泉八雲)の「生ける神」/中井常蔵の「稲むらの火」 四 明治維新と改革のこころざし 紀州藩改革への取り組み/自由民権運動と梧陵 五 今日から見た梧陵―むすびにかえて 経営者としての梧陵/防災の観点から