花森安治の青春(感想)
花森安治は”暮しの手帖”の創刊者で、生涯編集長を務めました。 花森は、”武器を捨てよう””国をまもるということ””見よぼくら一戔五厘の旗”など、反権力、反戦のメッセージを次々に発信してきました。 ”花森安治の青春”(2011年9月 白水社刊 馬場 マコト著)を読みました。 2011年に生誕100年を迎えた昭和を代表する思想家花森安治の半生を振り返り、思想の謎を探っています。 馬場マコトさんは、1947年石川県金沢市生まれ、1970年早稲田大学教育学部社会学科卒業、日本リクルートセンター、マッキャン・エリクソン博報堂、東急エージェンシークリエイティブ局長を経て、1999年より広告企画会社を主宰しています。 国内外広告賞を多数受賞しているほか、小説現代新人賞も受賞しています。 花森は1911年兵庫県神戸市に生まれ、旧制兵庫県立第三神戸中学校、旧制松江高等学校を卒業して、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、在学中は学生新聞の編集に携わりました。 編集部員時代に2・26事件を体験した花森は、やがて軍事国家の道を突き進んでいく日本を目の当たりにしました。 卒業後、伊東胡蝶園、のちのパピリオ宣伝部に入社し、広告デザインに携わりましたが、一通の赤紙によって、満州奥地の極寒の地へと応召されました。 しかし、結核で和歌山の療養所に入院し、その後は敗戦まで大政翼賛会の外郭団体に籍を置き、国策広告に携わりました。 除隊されたとは言え、戦争の不条理と悲惨さの一端を経験しましたが、戦後、花森は、過去を封印しました。 それは花森が密かに誓った戦争責任のとりかただったのではないでしょうか。 1946年に、編集者・画家の大橋鎮子社長と共に衣装研究所を設立し、雑誌”スタイルブック”を創刊しました。 1948年に、生活雑誌”美しい暮しの手帖”を創刊しました。 1951年に暮しの手帖社と改称し、生活者の側に立って提案や長期間・長時間の商品使用実験を行うユニークな雑誌を発行してきました。 1953年12月の第22号から、雑誌名を現在の”暮しの手帖”に変更しました。 1968年2月の第93号から隔月刊に変更され、現在に至るまで今なお熱心な読者を抱えています。 雑誌は、中立性を守るという立場から、企業広告を一切載せないという理念の元に発行されています。 主な内容は、家庭婦人を対象としたファッションや飲食物・料理、各種商品テスト、医療・健康関連の記事や、様々な連載記事や読者投稿欄等です。 かつて暮しの手帖社の屋上にはためいていた一戔五厘の旗は、今も現社屋の入口に展示されています。 一戔五厘の旗とは、庶民の旗、ぼろ布をつぎはぎした旗です。 かつての召集令状は一戔五厘のはがきの赤紙であり、一戔五厘の旗には、よこしまなもの、横暴なもの、私腹をこやすもの、けじめのつかないもの、そういう庶民の安らかな暮らしをかき乱すものすべてに対する怒りが現されています。 また、倉庫には花森が長年使用してきた机が保管されています。 この机は花森が大政翼賛会にいた戦時中、国民の戦時意識を高めるためのポスター等を製作するために使用していたものでした。 戦後、花森は、この机を生涯使い続けたといいます。1 花森安治の机2 西洋館と千鳥城3 帝大新聞のストーブ4 松花江(スンガリ)の夕映え5 宣伝技術家の翼賛運動6 花森安治の一番長い日7 日本読書新聞の大橋鎭子8 ニコライ堂のフライパン9 松葉どんぶりと胡麻じるこ10 花森安治の一戔五厘の旗